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リディア―世界の中で―  作者: 知佳
第九章:大
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****


 朦朧とする意識の中で、シエラは自分が今夢の中にいるのだと認識した。真っ暗な空間の中で、自分一人漂っている。視線を下に向ければ、濃紺の水面に自分の顔が映っていた。シエラは既視感を覚えながらも、一体いつこの景色を見たのか思い出せない。

 ――旅の最初の方で、似たような事があった気がするんだけどなぁ……。

 ぼんやりとそんな事を考えながら、シエラはゆっくりと水面に足をつける。静かに波紋が広がっていき、闇と静寂がシエラを包み込む。シエラが一歩を踏み出すと、後ろの方から誰かが近づいてくる気配がした。

「――まさか、御主が来るとは思わなんだ」

「……コト、ノ?」

 シエラは声の主に驚いて後ろを振り返る。そこには、先ほどまで話していた最高神コトノの姿があった。コトノはゆっくりとシエラに近づくと、その場に腰を下ろした。ぎょっとしたシエラを尻目にコトノはケラケラと笑っている。

「何を驚く? これがただの水ならば、御主はもう沈んでいるぞ? 私が座ったぐらいでは、沈んだりせんよ」

 シエラは言われてみれば、と今更ながら自分の足元を凝視した。コトノは暗闇の一点を見つめながら、シエラにも座るように促す。シエラはゆっくりと腰を下ろして、コトノの横顔を見やった。

「……何故、と問いたいのであろう? 残念だが私にも分からぬ。ただ、これは偶然ではないのだろうな」

「どういう、意味……?」

 シエラが眉間に皺を寄せると、コトノはどこか寂しそうな表情で微笑む。

「御主は……もう覚えていないのだろうな」

 懐かしむように、慈しむように、コトノはシエラを見る。その視線が苦しくて、こそばゆくて、シエラは思わず俯いた。

「……私と御主は、十年ほど前に一度出会っておる」

「え……っ!?」

 シエラは勢いよく顔を上げた。目をこれでもかと見開いてコトノを見れば、彼女は相変わらず微笑んでいるだけだ。

「御主は、これを誰に貰ったか覚えておらぬか?」

 そう言ってコトノが指差したのは、シエラの髪の毛を結んでいるヘアゴムだった。

『あなたは愛されている』

 フランズでルイスに言われた言葉が、シエラの中でフラッシュバックした。一体誰にこれを貰ったのかは今でも思い出せずにいる。けれどルイスにこのゴムの事を指摘されてから、シエラの中で確実に何かが変わった。そしてその何かを掴むには、シエラにゴムをくれた人物を知る必要がある。

「……もしかして?」

 恐る恐る、シエラはコトノの顔を覗き込む。

「……あぁ、私が御主にそれを渡した」

 次の瞬間、シエラは胸の奥に込み上げる感情を抑えきれなかった。コトノの腕にしがみつき、必死に、堪えるように口を引き結ぶ。

「覚えてなくとも良い。御主はそれで良いのだ。……ただ、私が伝えたかった」

「でも、なんで? なんで……?」

 シエラはうわ言のようにそれだけ言う。コトノはシエラを見やりながらも、どこか遠いところを見つめていた。

「そうせねばならぬと、思ったのだ。幼い御主を見て、止めようのない衝動に駆られた。あの時、ひと目御主を見て。……まぁ、気まぐれのようなものじゃな」

 コトノは悪戯っぽく微笑むと、わしゃわしゃとシエラの髪の毛を引っ掻き回す。シエラはそれを受け入れながら、熱くなる目蓋に力をいれた。

「……あなたのそれが気まぐれだと言うなら、私のこれも気まぐれで流して。……コトノ、ありがとう。あなたがこれをくれなかったら、私はきっとここにはいない筈だから。私を生かしてくれて、ありがとう」

 生まれてこなければ良かったと、何故こんなに自分だけが落ち零れているのかと、何度も何度も思ってきた。ずっと苦しくて、でも虚勢を張って平気なフリをして、一人の痛みを感じないようにしてきた。

 魔力が疎ましくて、そんなものでしか人を判断できないような世界が憎らしくて、何もできない自分が大嫌いだった。今だって意固地で、劣等感の塊で、心はいつだって強がりを続けようとする。だけど、少しだけ、少しだけ今は肩の力を抜く。コトノの腕にしがみつきながら、シエラは情けない自分をさらけ出す。コトノはただ黙ってシエラの為すがままにされている。互いの沈黙が心地よい。 

 ――気まぐれでも、何でもいい。コトノがこれを私にくれたという事実だけで、十分。……私は、生かされてきたのだから。

 シエラが暫くコトノの腕にしがみついていると、突然空気が殺伐としたものに変わった。コトノはシエラの頭を撫でながらゆっくりと立ち上がり、暗闇に広がる虚空を睨みつける。

「どうやらシエラ。……楽しい逢瀬は、ここまでのようじゃ」

 コトノはそう呟くと、強引にシエラを立ち上がらせて自分の背中に隠す。シエラは伝わってくる殺気に身体が強張り、額には冷や汗が浮かび上がってきた。

「御主らのような輩を、私は招いておらぬぞ?」

「……黙れ小娘。人間などにほだされおって」

 ゆらり、闇の中から姿を現したのは、シエラ達が最初にルダロッタで出会った老人だった。コトノは彼の姿を捉えると、喉の奥で低く笑う。

「メノウよ、私が人間如きにほどされるだと? バカも休み休み言うが良い」

「バカはどちらか。今更人間が我らの手を借りよう等と、愚かしいにも程があるとは思わんのか?」

「思わんな。これは私達の業だ。全ての因果が絡まり合い、結果こうなった。ならば私達とて、その流れに身を任せる他あるまい」

 コトノは毅然とした態度で老人に言い放つと、彼は持っている杖を大きく振りかぶった。水面が大きく波立ち、巨大な蔓のようなものが突然水の下から出現する。シエラが驚いて老人に視線を向ければ、彼の瞳は澄み渡るような青ではなく、燃え盛るような赤になっていた。コトノはシエラを庇うように背中に隠してから、ゆっくりと右手を翳す。

「……私と、争うというのじゃな」

 そう言ったコトノの横顔に、優しさなど欠片もなく。ただ敵を見据える、獰猛な燃え盛る赤が広がっていた。

「去ね!」

 冷淡なコトノの声が空間いっぱいに響き、現れた蔓は一瞬にして塵と化す。水は生き物のようにうねりながら老人に迸り、老人は杖を翳して水を水でせき止める。

「ほら、どうした? その程度か?」

 コトノは暴力的な笑みを浮かべながら、メノウという老人に次々と攻撃を繰り出す。シエラは呆然とその様子を見る事しかできない。すると、暗闇の世界に次々と気配が増えてきた。コトノとシエラを囲むように、四方八方から迫ってくる。コトノは小さく舌打ちすると、シエラを自分から一歩ほど離す。そして水の牢屋にシエラを閉じ込めた。

「コトノ!?」

「……御主は、今暫し幸せな夢に耽るが良い」

 コトノはそう言って穏やかに微笑むと、水牢ごとシエラを水中に沈めた。シエラはコトノの後姿をぼんやりと見つめることしかできない。そして、意識は深く深くへと飲み込まれていった。



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