幕間
****
夜空を見上げながら、グレイは抑えられない衝動と狂気に駆られていた。口元に笑みを浮かべながらも、全てを壊してしまいかねないような、深く暗い魔力を内包している。それは今にも爆発してしまいそうな勢いで、じりじりとグレイの喉元まで出てきている。しかしグレイは穏やかな表情のまま夜空を眺めていた。
輝きを放つ満月は、何一つとして変わらない。今も昔も、そして未来でさえ不変で有り続ける。欠けては満ちて、満ちては欠けてを繰り返し、この長い時を永久にあり続けるのだ。
「……リディア」
名前を呟いただけなのに、グレイはどうしようもない幸福と枯渇に苛まれる。この漆黒の世界においてただ一つの光にして、そしてまた凶暴で狂喜的な凶器でもある。
「君は、どうして俺を……」
その時、控えめなノック音が部屋に響く。グレイはゆっくりと振り返り「入っていいよ」と小さく呟いた。正直自分でもこんな不安定な精神状態で人に会う事は避けたいのだが、どうにもそういう訳にはいかない。部屋に入ってきたのは薄桃色の髪を靡かせた女性だ。彼女は壁にもたれて月を眺めているグレイを見やると、淡く微笑んでみせる。
「また、感傷的になっているのかしら?」
「別に、そういう訳じゃないよ……」
珍しく歯切れの悪いグレイに、女性はゆっくりと近づき、彼の頬にそっと手を当てた。
「そんなに思いつめる必要ないんじゃないかしら? それにほら、坊やから良い報せが届いているわ」
女性は魔術式で封された封筒をグレイに差し出す。グレイは訝しげな顔でそれを受け取ると、小さく呪文を唱えてその手紙を読み始めた。
「……アークの活動拠点は、フォーカス」
「フォーカス? あの革命の国? ……坊や、よく生きているわね」
「アレンには、俺の魔法に関する知識は殆ど教えているからね。あの子は天才だよ」
グレイは手紙の続きを読みながら、小さく忌々しいと呟いた。アークなんて弱小で成り上がりな存在が、自分の計画の邪魔をするなどあってはならない。
更に手紙には、アークはフォーカスだけでなくロベルティーナやディアナにも活動拠点がある事が書いてあった。しかもアークの幹部メンバーとアレンは、ロベルティーナの適合者選出時に少なからず接触している可能性があるとも。
――なるほど、ねぇ。アークも宝玉奪取に一役買っていたってわけだ。
つまり、あの時騒ぎを起こしたアレンの顔は見られてしまっているという事になる。一体どれほどの実力者がいるのか、その辺りは測りかねるが、恐らくまだ若輩者ばかりだ。
――宝玉に選ばれるのは二十五歳以下。……二十五歳以下なんて、高が知れてるよ。
天才といえどアレンがまだ子供であるように、所詮は程度が知れるというものだ。しかし一つ不可解なのは、アークの中心人物。アレンの手紙によれば、アークの創設者にして中心的人物はアハトという老人らしい。けれど彼に関して、一切情報が出てこないらしい。
――偽名、か。面倒だが厄介ではないね。……それにしても、この男一体何を考えてるんだ。
アークは今現在他者との絆を信じさせるという活動と、アールフィルトやその他の神に関する文献の調査を行っているらしい。アールフィルト、というのがどうにも引っかかる。
――つまり、アン達にも接触する可能性があるのか。
アンの持つアールフィルトの力は特別だ。あれは人が簡単に手を出していいものではない。何よりグレイは自分以外の他人に、アンという存在に関わられるのがひどく不愉快だ。アンに及ぶ影響の要因は、全てグレイの掌で管理されていなければならない。それが他人に、しかもアークなんぞに崩されたとあっては腸が煮えくり返るどころの話では済まない。
「……今度こそ、私が動きましょうか? そろそろ頃合いなんじゃないかしら。適合者ももうすぐルダロッタに到着する。そして、アークは目障り。あなたは目的を達成したい。……ねぇ、条件は十分だと思うけど?」
「……まだだ。あと少し、あと少し何かが足りない。それに俺は君には他にやって貰いたい事があるんだ」
「あら、何かしら?」
グレイは首を傾げる女性に、にぃと口角を上げてみせる。その時、凍りついた女性の表情が、グレイはたまらなく嬉しかった。
壊れてしまえばいいんだ。こんな世界は、今すぐに壊れてしまえばいい。グレイは無表情に変わっていく女性の顔を見つめながら、内心でほくそえむ。この時代に生きる人間が、今を生きている人間が、自らの手で破壊と破滅を選び取ればいい。最愛の彼女が回避しようとした未来を、グレイはそっと手繰り寄せているまでの事。
――壊すのは俺じゃない。俺がただ壊すだけじゃ駄目なんだ。……ただ、時代が全てを選んだだけだ。
舞台に立つ役者は、全て偶然と必然の均衡の上に成り立っているだけだ。グレイはアレンからの手紙にもう一度目を落とす。アークの本拠地はフォーカス。そして中心人物の名前はアハト。これが分かっただけでも大収穫だ。
「……ねぇ、グレイ。一つ、いいかしら」
「なんだい、言ってごらん?」
「……もし、もしよ? あなたと同じような存在が、この世界のどこかにいたら、あなたどうする?」
女性の言葉に、グレイは一瞬言葉を失った。言葉だけではない、思考そのものが、心そのものが一瞬だけ消え去った。しかしすぐにグレイは笑う。
「そんな“もしも”、あるわけないじゃないか。そんな素質のある人間が、この世界に?」
「分からないわよ。……シエラ=ロベラッティやアン=ローゼンのような人間も存在しているのだから」
グレイは女性の“もしも”に思考を働かせる。確かに可能性としては限りなくゼロに近い。けれど、ゼロではない。シエラやアンといった、グレイのゲームの役者たちは誰もが恐ろしいほどの可能性や潜在的能力を秘めている。
けれど自分と同じような人間が存在する事など、あるのだろうか。“そうなる”為の要因は、既にこの世界に存在していないというのに。
存在しえない存在に臆するなんて、馬鹿馬鹿しくて愚かしい。グレイは女性に向き直り、ゆっくりとその身体を抱きしめた。女性の身体が固まるのをグレイは感じ取ったけれど、あえて気づかぬ素振りをする。
「……ねぇ。君は、果てが見たいんだよね?」
グレイが耳元で囁けば、女性は小さく頷き返す。
「だったら、俺の言う事、聞いてくれるよね?」
こんな下らない陰鬱とした世界、壊れてしまえばいいんだ。今を生きる者の手で、壊してしまえばいいんだ。グレイは満月を背に、もう一度笑ってみせた。




