三
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シエラは走っていくその背中をじっと見つめたまま動けなかった。本を小脇に抱えたドルイド館長が、館長室のある奥の通路に向かって走っている。別段おかしな光景ではないはず、なのだが――。
「おい、どうしたんだ」
「クラウド……ッ?」
「何びびってんだよ。……で、ぼさっとしてどうしたんだ」
いつの間にか隣にいたクラウドに、シエラは怪訝そうな顔で走っていくドルイドを指差した。
「あれ。……別に変なわけじゃないんだけどさ。本持ってバタバタしてどうしたのかなって」
するとクラウドも少し怪訝そうな表情になったが、シエラと同じ気持ちなのかすぐに険しさは消えた。
「……声かけてみるか?」
鍵の事もあるし、シエラは頷いてクラウドと共に奥の通路にいるドルイドを追いかける。館長室の前までくると、中から話し声が聞こえた。シエラとクラウドは顔を見合わせて、そしてシエラは遠慮なく扉に耳を近づける。クラウドがシエラのそれに驚き、慌てて扉から離そうとしたが、シエラは頑として動かない。
内容が内容ならばすぐに離れるつもりだった。けれど、シエラの耳に入ってきたのは予想もしない言葉だった。
「――だから、適合者が来たんだよ!」
部屋から聞こえたのは老人の渋い声ではなく、若々しい青年の声だった。しかも、どうやらシエラ達の事を言っているらしい。シエラは手招きして扉から少し離れていたクラウドを呼ぶ。拒否されたものの、強引に耳を扉に近づけさせる。
「……どういう事だ」
「……さぁ? でも、穏便じゃないよねー」
小声で会話しつつ、耳をそばだてる。漏れ聞こえてるのは罵詈雑言と愚痴ばかりで、男は感情的になっているのか言っている事も支離滅裂だ。
「とにかく、あの本はさっき入手した! 今から送るからさっさと受け取ってくれよ! 俺はもうこんなとこうんざりなんだ!」
入手。さっき。本。この三つのキーワードがシエラとクラウドの中で引っ掛かる。先ほどドルイドは本を持っていた。そして今のこの会話。どう考えても先ほどの本を会話の相手方に送る、そういう風にしか解釈できない。もしかしたら何か仕事の関係でこういう状況になっているのかもしれない。そういう一抹の不安もある。けれど、この怪しい雰囲気はなんだ。クラウドは意を決したように扉を開け放ち、部屋へと一歩踏み入る。
「なっ!?」
そこにいたのは老人ドルイドではなく、どこからどうみても青年だった。髪の毛も白髪ではなく黒髪で、髭もなければスーツも着ていない。深紅のマントを羽織り、足元には魔法陣が浮かんでいる。
「どういう事、これ」
「チィ……ッ!」
青年はシエラとクラウドを見るやいなや舌打ちし、炎の矢を放ってきた。
「くそがっ! ここは図書館だぞ!」
それを剣で打ち消したクラウドは、そのまま青年に突っ込む。しかし結界が張られているのか、クラウドの剣は青年まであと少しという所で弾かれてしまった。
「はは。いくら適合者でも、これは破れねぇだろ」
青年は勝ち誇ったように笑うと、再び炎の矢をシエラ達に向かって放ってきた。
「きゅーん!」
「イヴ!?」
するとシエラの肩に乗っていたイヴが突然飛び降りると、全速力で館長室を出ていってしまった。しかしイヴに気を取られている余裕もなく、シエラは放たれた矢を避けるのに精一杯である。
「おい、無事か!?」
「へ、へーき!」
量が多かった事と室内という事もあり、クラウドも思うように剣を振るえない。
「うわ! 燃え移った!」
しかも相手は躊躇なく魔法を使ってくるので、部屋は少しずつ炎に包まれてしまっている。
「お前、水の魔法使えねぇのか!?」
「え、こんなとこでやっていいの!?」
「とにかく水だ、水!」
全て燃えてしまうよりはいいと考えたのか、クラウドは珍しくシエラに魔法を迫ってきた。シエラは渋々詠唱しようと口を開くが、その前にまた男が魔法を放つ。
「これは俺が何とかするから、さっさとしろ!」
至近距離で魔法を放たれれば相当不利なのだが、それでもクラウドは懸命に剣を振るう。シエラは深呼吸して、それから一度宝玉に語りかける。
――この部屋の炎を消せるだけの水量。それを調節して……!
今回は声は聞こえなかったものの、それでも見のうちに宿る宝玉は応えてくれた。淡く温かい光に全身が包まれる。
「清らかな流れよ、ここに来たれ。アクア・フォール!」
シエラが手を翳すと、燃えている部分にだけ水が発生しすぐに消火してしまった。書類などは全てガラス戸つきの棚に納められているため、どうにか濡らさずに済んだ。青年は焦ったように再び魔法を発動させようとしたが、どこからか聞こえた相手方の怒号に身を竦める。
「いいから早く転送してこいよ!」
「わ、分かったよ!!」
青年は相手に怒鳴られ、半ばやけくそに空間魔法の詠唱をはじめた。魔法陣が光だし、段々と青年の身体が透けていく。
「あぁ!」
まずい、このままでは逃げられてしまう。シエラとクラウドが焦って結界に攻撃を加えていると、後ろから人の足音が聞こえてきた。
「んー、厄介事は勘弁して欲しかったなぁ」
間延びした緊張感のない声と、愛らしい鳴き声にシエラは後ろを振り返った。そこにいたのは先ほど出て行ったイヴと、それからイヴを渡してくれた金髪の青年だった。
「やぁ、また逢ったね」
「ど、どうして……!?」
「この子に呼ばれちゃってね」
青年は擦り寄っているイヴの頭を優しく撫でてから、視線を再びシエラに戻す。
「それに、困ってるお嬢さんを見捨てるのは、俺の主義に反するんだよ」
笑った青年は美しかったが、今はそんな事に構っている暇はない。それに隣にいるクラウドの舌打ちも合わさって、シエラは苛立った声で叫んでいた。
「じゃぁこの結界どうにかして!」
「お安い御用だね」
青年が部屋に入ると、途端に魔法陣が光を失った。
「な、なにを……!?」
「そこのお嬢さんが、君に逃げられると困るみたいだからね。ちょっと大人しくしててよ」
そう言うと青年はシエラとクラウドの間に割って入り、結界にそっと手を当てる。
「ふーん。これ、君のオリジナル? 結構手の込んだ事するんだね」
青年は優雅に口元に弧を描き、そして手に力を込める。すると、途端に結界は甲高い音を立てて粉々に砕け散ってしまった。
「す、すご……!」
シエラが声を上げると、青年は「まぁね」と誇らしげに微笑む。目の前にいる男はがたがたと小刻みに震えており、口元には引きつった笑みが張り付いている。
「それで? 君は何してるのかな」
青年の優しく、けれどどこか責めるような口調に、男は着ていたマントを脱いでシエラ達に向けて被せてきた。
「ッ!?」
一瞬視界が塞がれ、そして次の瞬間には男だけがその場に残っており、本とマントは消えてしまっていた。
「あんた、何をした!」
クラウドは男に詰め寄って胸倉を掴む。その怒気を孕んだ声と深い眉間の皺、そして最終兵器の鋭い眼光に男は竦みあがっている。
「あーもー、君、スマートじゃないよ」
「あんたは黙ってろ」
青年は肩を竦めた。初対面にも関わらず、この二人に流れている雰囲気は剣呑だ。シエラは震えながらも勝ち誇った笑みを浮かべている、目の前の男をじっと見つめる。
「……本をどこに送った。あんたは何者だ。何を目的に何故あんな事をした」
詰め寄るクラウドに、男は情けない小さな悲鳴を上げた。シエラもクラウドの隣に屈みこむと口を開く。
「さっきのマント、あれに空間魔法を仕込んでたって事?」
「い、言えねぇよ。何聞いたって無駄だからな」
「俺には答えずにこいつには答えるのか」
クラウドは眉を引きつらせ胸倉を掴む力を強くする。これでは埒があかない。シエラはそう思い、ウエーバー達を呼ぼうと腰を上げた。
「きゅーん!」
「シエラ……ッ!」
すると先ほどの青年の登場と同じように、イヴを先頭にウエーバー達がそこにいた。皆、肩を上下させ荒く息をついている。
「ちょっと、どうしたって言うのよ!」
「つーか、そこにいるの誰だ?」
「シエラ、大丈夫ですか!?」
「……ひどい有様だな」
部屋を見回してからそれぞれ何か言ってきたが、流石にシエラ一人では答えられない。金髪の青年はウエーバー達を見て、僅かに眉間に皺を寄せたもののすぐに笑顔を取り繕う。
「これは、随分と賑やかなだね」
「そ、そんな事より! ちょっと尋問得意な人誰か!」
このままでは収集がつかなくなってしまう。後ろで相変わらず胸倉を掴んで殺気を放っているクラウドを横目に、シエラは慌てて視線をウエーバー達に戻す。
「尋問、ですか」
「あんた得意そうよね」
「いえ。ラミーナさんには負けるかと……」
「どっちでもいいから早く!」
シエラはウエーバーとラミーナの腕を掴むと、強引に引っ張ってクラウドの元へと連れて行く。ユファ達にも聞こえるように手短に経緯を話すと、彼らは皆どこか納得した表情になった。
「要するにこいつが館長に化けてたって事だろ」
「それで、本を盗んでどこかに送ったと」
「まぁ、三下の考えそうなことよねー」
「ラミーナさん、本人を目の前にしてそれは……」
その反応に一番驚いて、何より納得できなかったのはシエラだった。
「え? 何で皆そんな普通な顔してんの!? おかしくない!? ていうかおかしい!!」
シエラが騒ぎ出すと、ラミーナがすぐさま口を塞ぎにかかる。シエラが大人しくなると、ラミーナは身体を離して、それから重たい溜め息を吐いた。
「いい? 別にあたし達だってこういう事態に慣れてるわけじゃないのよ。ただ、今回ばかりはおかしな点ばかりだったから、つい納得しちゃっただけなの。お分かり?」
「わ、分かりました……」
シエラが何度も頷いてみせると、ラミーナは肩の力を抜く。視線をクラウドの方に戻してみれば、相変わらず男はがたがたと震えている。
「んもう、面倒ね! さっさと警察隊に突き出しちゃいましょうよ」
見かねたラミーナは苛立ちを露わに男は一瞥する。シエラ達の目的である、二千年前の情報を得る時間をこの男に潰されたと思えば、確かに腹立たしい。というか実際シエラもそろそろ面倒くさくなってきた頃合だったので、適当にらみーなに相槌を打つ。ただクラウドだけは不服顔で、未だに男の胸倉を掴んでいる。
「……なー、だからよー、そいつ誰なんだって」
「は?」
バイソンの疲弊し間延びした声に、シエラはばっと振る返った。そこには金髪の青年がにこにこと突っ立っており、シエラは慌てて口を開いた。
「えーと、なんていうかこの人に助けてもらったというか、なんというか……」
「なんだそうだったのか! ありがとよ!」
にかっと笑ったバイソンだったが、青年の反応は芳しくない。少し笑顔が引きつって引き気味だ。
「ふーん。ま、この子達が世話になったみたいだし。礼は言っておくわ」
「えー、ラミーナなんかそれ婆臭いよ」
「うっさいわね!」
ガツン、とシエラの脳天にラミーナの拳骨が命中する。涙目になりつつも青年を見やれば、さっきと打って変わって目が輝いていた。
「レディーの為なら、何だってするのが紳士だからね」
「は?」
シエラとラミーナの声が重なる。青年は二人の前に跪き頭を垂れて、ラミーナの手を握ると、その甲に軽いリップ音を立ててキスを落とした。
「……な、なな、なにすんのよ――――!!!!」
次いでバチンという凄まじい音が館長室に響き渡る。ラミーナに平手を喰らった青年は真っ赤になった頬を擦りながら笑っている。
「手厳しいなぁー」
ははは、と笑い声を上げている青年を除いたシエラ達は、固まって動けずにいる。
クラウドも思わず男の胸倉から手を離してしまった。ちなみに掴まれていた方の男も、まさかこの状況であんな事が起こると思っていなかったらしく、呆然とシエラ達を見つめている。
「……あれ? 何この空気」
「いやいやいやいやいや……!! 何この空気、じゃない! あんたじゃん! 原因思いっきりあんたじゃん!」
シエラは思わず青年にツッコんでしまった。言った後に無性に恥ずかしくなって身を縮こまらせたが、青年は大して気にしていないのかあっけらかんと笑っている。
「なんつーか、掴み所ねぇのな」
ぽかんと口を開けたままだったバイソンが呟く。それにユファもこくこくと頷いている。我に返ったクラウドは慌てて男を逃がさないようにと胸倉を掴んだ。一方、その本人はまさか過ぎる展開についていけず放心状態が続いている。
――なんかどっと疲れたな……。
一体どうしたもんかとシエラが頭を抱えていると、自分の身体を抱き締めて顔を引きつらせていたラミーナが、半ば自棄になって叫んだ。
「さっさと警察隊呼んで! もう! あたし達の目的、忘れてるのっ!?」
あまりの剣幕に、シエラとウエーバーは身体を竦みあがらせて返事をする。ウエーバーは水晶を取り出して魔力を注ぎ、警察隊に繋いでもらうと、事のあらましを話し出す。後ろで「ついでにこの男も突き出して頂戴!」と喚いていたのは無視しておく。
挨拶で頬や手の甲にキスをするという習慣のある国もあるからだ。きっと彼はそういう国の出身なのだ。だから事も無げに初対面の相手にキスできたのだ。シエラは無理矢理自分を納得させる。図書館が街の、しかも王都の中心にあったお陰か警察隊は十分も掛からずに到着した。男はあっさりと引き渡され、その二十分後には倉庫の奥から本物の館長が発見された。
「――あー、これでやっと調べられるね」
図書館の中央ホールでぐったりとソファに凭れながら、シエラ達は身体から力を抜く。成り行きで金髪の青年も一緒にいるが、ラミーナは逆毛を立てて彼から距離を取っている。
「ねぇ、そういえば君たちはどんな繋がりなんだい?」
「って、さり気なく近づいてこないで」
ラミーナはシエラとユファの陰に隠れる。ここまで怯えたラミーナなど滅多に見られない。何しろ混浴にすら怯まなかったラミーナだ。それがあの青年には――。シエラの口からは乾いた笑いが漏れる。仕方ないとばかりに見かねたユファが口を開いた。
「私たちは旅の仲間だ。……それより、あんたはいつまでそこにいるんだ」
「そんなに警戒しなくていいのに。あ、俺はサルバナ=シャイファン。宜しく」
すっとサルバナ青年は手を差し出してきたものの、シエラもユファも、ウエーバーもその手を握り返さない。サルバナは困ったように肩を竦めると、視線を天井に向けた。
「それにしても、ここの図書館って凄いよねぇ。吹き抜け構造だし、蔵書の数も半端じゃない」
サルバナが一人で笑って図書館を褒めていると、司書らしき人がこちらにやってくる。年は三十前後ぐらいだろうか。申し訳なさそうな表情で歩み寄ってくると、遠慮がちに声をかけてきた。
「申し訳ありませんが、お客様方のお求めの本は館長の同伴が必要でして……。また後日、こちらに来ていただくかたちとなってしまうのですが」
折角長いこと待ったのに。シエラは口から出掛かった言葉を飲み込むと、おかしな事を口走らないように手で口元を塞いだ。
「そう、ですか。分かりました。では三日後、もう一度きます」
ウエーバーはそう言って微笑む。シエラ達は司書がカウンターに戻っていくのを見届けてから立ち上がった。
「まぁ、無事に目的を果たせるならいいわ」
「本物の館長は大丈夫だろうか……?」
「図書館って意外とおもしれぇんだな!」
「バ、バイソンさん! 声のボリューム落として下さい」
「……結局面倒事に巻き込まれたな」
「ていうかお腹空いたー。今何時だろー」
全員が全員ばらばらの事を口にしながら出口に向かう。するとシエラの肩に乗っていたイヴが突然飛び降りると、サルバナの元へと戻って行く。
「イヴ?」
シエラは立ち止まって後ろを振り返った。
「きゅーん……」
「君のご主人たちは面白いね。……ははっ」
そんな彼らを眺めながら、サルバナはイヴの頭を優しく撫でる。
「ほら、いきなよ。また迷子になったらどうするんだい」
サルバナがイヴの背中を押すと、イヴは一鳴きしてからシエラ達の元へと駆けて行った。シエラは飛びついてきたイヴを受け止めて、視線をサルバナへと向ける。彼はこちらにひらひらと手を振って笑っている。第一印象そのままの、掴み所のない、飄々とした彼がそこにはいた。
シエラはじっとサルバナを見つめたまま、ゆっくりと後ろ歩きで出口まで行く。シエラは言い知れぬ何かをサルバナに感じ、クラウドに呼ばれるまでずっと視線を逸らせずにいた。図書館を後にしたシエラ達は適当な飲食店に入り、食事を済ませる。暫くウエーバーに案内されフランズを観光したあと、シエラ達は王城へと戻って行った。




