表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
リディア―世界の中で―  作者: 知佳
第四章:然
35/159

****


「ラミーナ!」

 シエラは驚きのあまり、やたら高い裏返った声で彼女の名前を呼んだ。ラミーナは神妙な面持ちで降り立つと、シエラに向き直る。

「ラミーナも街の人たち見た? 今原因をウエーバーが様子を見に行ってるんだけど……」

「えぇ、ウエーバーを見たわ。ちょっとややこしい状況かもしれないから、行きましょう」

 シエラとクラウド、バイソンは顔を見合わせると深く頷き、路地裏を飛び出した。このまま大通りを走っていけば、きっとその原因があるはず。どうやらそれは正しいらしく、ラミーナも「そのまま真っ直ぐ!」と口にした。

 人がいなくなったからか、思いのほかすぐに目的の場所に着くことができた。上空には呆然としたまま停滞しているウエーバーがいる。

 そして、視線を戻したシエラたちも驚愕した。そこには、先ほど遺跡で見た守護霊獣と呼ばれた獣が佇んでいるではないか。しかし、先ほど感じた神々しさのようなものは一切なくなってしまっている。

「どういう事……?」

「こいつって、さっきの守護霊獣だよな。なんでこんな所にいんだ?」

 バイソンの呟きは最もで、その場にいる全員が固唾を呑む。謎の少女によっていつの間にか消されたはずだが、何故今いるのか。

「皆さん、気をつけて下さい!! 相当の魔力を持っています!」

 ウエーバーの叫びと共に、霊獣は一際大きな咆哮を上げた。耳を塞ごうとしたが、その前に霊獣はシエラ達の眼前から消え失せていた。

「え……!?」

 霊獣は大きく跳躍しシエラたちの頭上を越えて、大通りを市中に向かって走り出している。

「い、遺跡に戻るのかな」

「呑気に行ってる場合か! 追うぞ!」

 クラウドとバイソンはすぐに走り出し、次いでラミーナとシエラも駆け出す。ウエーバーは上空からの方が良いと考えたのか、上体を捻って飛び出した。

「にしても、流石にはえーな」

 バイソンは霊獣の後姿を睨みつけながら、薄っすらと笑みを浮かべる。とても人間の足では追いつけそうにない。

「……下手に追いついても、危険だぞ」

 クラウドは並走しているバイソンをちらと見る。バイソンもその事はよく分かっているようで、苦笑いを浮かべていた。

「それにしても、妙だな」

「あぁ。守護霊獣が何なのかは分からねぇが、あんな風に危害を加えるのは……ちっとばかしやり過ぎだな」

 遺跡で見た時は、こんな雄々しく神々しい生き物がいるのかと思うほどだった。それが今や見る影もない。本当に僅かな時間で、一体何があったというのだろうか。

「……クラウドさん、バイソンさん!」

 すると上からウエーバーの声が木霊した。二人は視線をウエーバーに向ける。

「霊獣はどうやら役所に向かっているようです!!」

「分かった!」

 視線を前に戻すと、いつの間にか霊獣との距離は相当離れてしまっていた。今では前方に小さく見える程度で、いつ振り切られて見失ってしまうか分からない。

「……仕方ねぇ。飛ばすか」

「……は?」

 バイソンの呟きにクラウドが視線を動かした瞬間、突然魔力がバイソンの足から湧き上がった。そして一気にクラウドの前に躍り出ると、バイソンは滑るような速さで霊獣を追いかけ始める。

 傍から見れば走っている様には見えない。地面をローラーか何かで滑っているような、そんな感じだ。歩幅は大きく、歩数は少ない。恐らく先ほど魔法を発動したのだろう。クラウドはその事に少なからず驚いている。バイソンは格闘家なだけに体術専門で、魔法は使わないと想っていたからだ。

「……え、何あれずるい!!」

 丁度後ろからシエラの喚く声も聞こえてきた。確かにあれはずるい、というか反則ではないか。と、クラウドも思う。しかしこれは競技でも試合でもないので、反則も何もあったものではないが。

「クラウドさん……」

「ウエーバーか」

 いつの間にか、ウエーバーが低空飛行しながらクラウドの隣にいた。彼の表情は何処と無く曇っている。先ほど様子を見に行った時に何かあったのだろうか。クラウドは言葉の続きを待つ。

「こんな事を言うのもおかしな話なんですが。……霊獣と対峙してから、心に引っ掛かるんです」

 ウエーバーから漏れたのは意外な言葉だった。クラウドは眉間に皺を寄せながら、前方の獣を見やる。

「哀しいというべきなんでしょうかね。……あれは、無害ですが危険な気がします」

「何だそれ。無害だが危険。それって矛盾しているだろ」

「そうなんですけど。なんか、言うならばそんな感じなんです」

 益々訳が分からない。無害ならば危険なはずがないし、危険ならば無害なはずはない。

 ならば一体あれは何だ。

 そう思いよく目を凝らしてみると、バイソンが霊獣に追いついたらしい。霊獣の前に立ちはだかっている。

 ウエーバーもそれに気づいたのか、速力を上げた。クラウドも足に力を込め、大きく地を蹴る。間に合うかどうか微妙なところだ。しかしあの霊獣を、いくら強いとはいえバイソン一人で相手するのは流石に厳しい。

「いざとなれば、ここから魔法を放ちます」

 ウエーバーの緊迫した声音に、クラウドも深く頷く。クラウドはじんわりと、額に汗を掻きはじめていた。まだそれほど長い距離は走っていない。それなのに、クラウドはいつも以上に汗を掻いている。

 ――くそっ、何だってんだよ……!!

 自分はあの霊獣に、少なからず恐怖しているのか。それとも、別の何かか。

 ――冷静になれ。

 自分にそう言い聞かせると、剣の柄に手を伸ばす。あと少し、あと一歩。今だ。クラウドはすっと鞘から剣を引き抜くと、目の前の霊獣に向かって剣を振り下ろした。

「馬鹿野郎……ッ!!」

 ドガァァン。

 バイソンの怒声で、クラウドは僅かに身をそらした。クラウドがもしあと一秒でも反応に遅れていたならば、確実に死んでいただろう。

 大きく穿たれた地面は、中心のクレーターから半径五メートルほどに渡って焼け焦げていた。霊獣は低い唸り声を上げ威嚇している。尾を地面に叩きつけると、そこはたちまち焦げていく。

「……大丈夫か!?」

「すまない」

 クラウドは自分の軽率さを恥じながら、バイソンにちらと視線を向ける。どうやら彼も無傷らしい。

「気をつけろよ……。こいつ、やべぇぞ」

 バイソンは汗ばんだ拳をきつく握り締める。そして構えると、軽い足取りで霊獣に向けて拳を振るった。

 バイソンの拳は霊獣の腹部に見事に決まった。しかし、霊獣は苦痛を感じた素振りも無く、その尾でバイソンを叩き潰そうと連打を繰り出してきた。

「チィ」

 上体を反らし、空中で大きく回転しながら後方に下がる。そのバイソンと入れ替わりに、今度はウエーバーが無数の魔法陣を出現させた。

「……廉潔な精神、愛染の慈悲、真理の在り処を知る者よ!! 陣式封鎖――チェインズ・バインド!」

 霊獣を取り囲むように配置された魔法陣が青白く光ると、そこから鎖が一斉に出現した。

 それは真っ直ぐに霊獣へと向かい、体の動きを無くそうと肢体に絡まっていく。霊獣の胴や足や首などに複雑に縛り上げ、次第に霊獣も暴れなくなった。

「……一応、効いてるみたいだな」

「まだ油断は出来ません。とりあえず、専門の人を呼ばない事には……」

 鎖で動きを封じられた霊獣は低い唸り声を上げている。ウエーバーはすっと指を真横に引く。すると霊獣を縛る鎖が更にきつくなった。

「……なぁに、もう片付いたの?」

 突然呑気な声が聞こえ男性陣が振り返ると、そこには息を切らしているシエラとラミーナがいた。しかし言葉とは裏腹に、二人の表情も普段に比べ緊迫している。

「……なんか、可哀想」

 ぽつりとシエラの漏らした呟きに、視線が一斉に集まる。シエラは一瞬眉をしかめるものの、迷いのない声ではっきりと、

「だって迷子みたいだから」

 そう口にしたのだった。皆予想外だったのか、シエラを凝視する。しかしバイソンだけはすぐに腹を抱えて笑い出した。

「あははは!! 迷子か、その発想は新しいな!」

 笑っているのがバイソンだからだろうか、不思議と嫌な気はしない。けれどやはり、少し恥ずかしいのだ。シエラは顔を真っ赤に染め上げながら慌てて叫ぶ。

「だ、だってなんかそんな感じしない!? こう、頼りなさげな目とか、見てるこっちが見てて可哀想になるとことか!」

 クラウドとウエーバー、ラミーナの三人はぽかんと口を開けたままだ。 バイソンはゲラゲラ笑いながら息も絶え絶えに「悪い悪い」と謝っている。そして笑いを引っ込め、シエラに向き直るといつものようにニィと豪快な笑顔を見せた。

「んじゃ、いっちょ迷子を助けてやりますか」

「……そう、だね」

 シエラも固まっていた表情を崩し笑みを浮かべる。そしてとりあえずシエラとバイソン、ラミーナの三人が役所に向かう事になった。

「……早めにお願いします。あまり長時間は持ちませんので」

 霊獣を捕らえているウエーバーの額には玉のような汗が浮かんでいる。やはり相当無理をしているのだ。

「分かった。急いで人を呼んでくる」

「……その必要はない」

 しかし、駆け出そうとしたシエラ達の前に立ちはだかる人物がいた。

「あなたは……ッ!」

 シエラは思わず声を上げていた。

 金の流れる髪に澄んだ蒼い瞳を持つ少女がそこにいた。口元はマフラーで隠され右目は眼帯で覆われているため、表情は読み取りにくい。しかし、彼女の纏う空気はどこか剣呑としていた。

「何か騒がしいと思えば……」

 少女は切れ長の目を更に鋭くさせる。が、こちらには睨みの名人クラウドがいる。そのせいかシエラは怖いとは思わなかった。ただ、この少女が何をしようとしているのか、それだけが気になる。

「待てよ。別に俺達はこいつに危害を加えようなんて気は……」

「ならば今の状況はなんだ」

 言い募ろうしたバイソンを睨み付けると、少女はゆっくりと霊獣に近づいていく。

「一体何が目的だ」

「おいおい、俺達は何もしてねーって!」

 バイソンは少女を宥めようと、笑顔を見せつつ対応するが、少女の顔は益々険しくなっていく。そして右手首に巻き付けていた数珠を外すと、霊獣に向けて右手を翳した。

「秘めし情熱、たぎる哀惜、永久なる流れの源泉へと帰さん――サイキック……」

「させるかよッ!」

 クラウドは鞘から剣を引き抜くと、電光石火の如く少女の前に躍り出る。詠唱の僅かな隙をつき、クラウドは少女に切りかかった。勿論、傷つけないように加減している。

 しかし少女はクラウドの斬撃をかわすと、そのまま体を捻り回し蹴りをクラウドに放つ。

「……ッ!?」

 思わぬ反撃にクラウドは戸惑ったものの、少女の蹴りをかわすとすぐさま間合いを測った。

 シエラは勿論、ウエーバーやラミーナ、バイソンも唖然としている。 まさかあんな、見た目はシエラと然程変わらない少女がクラウドに反撃を喰らわせようとするなんて。

 遺跡での出来事から只者ではないと思っていたが、こんな形で見えるのは予想外だった。

「どうした、それで終わりか?」

「なめやがって……」

 少女の険しい視線と挑発的な言葉に、クラウドが本気になりかけた時。

「うわぁ!!」

 ウエーバーの驚きの声が響いた。次いで大地を揺らす獣の咆哮が轟く。どうやらウエーバーの魔法が破られてしまったらしい。自由を取り戻した霊獣は尾をはためかせ一目散に走り去ってしまった。

「やべぇ!! 追うぞ!」

 バイソンは強く地面を蹴ると先ほどの魔法で、再び霊獣を追いかける。呆気にとられていたシエラ達だったが、はっと我に返り再び走り出す。

「あんたの相手は後だ!」

 クラウドは少女にそう告げると、シエラ達の後を追う。

「ま、待て……!」

 そして少女もシエラ達の事を追いかける様に走り出す。霊獣が向かっているのは役所の方向だと先ほどウエーバーが言っていた。一体そこに何があるというのだろうか。そして何故、霊獣はあんな可笑しな場所に出現したのか。シエラは不安と疑問を抱えながら、懸命に足を動かす。

「……それにしても、妙よね」

 隣にいるラミーナも怪訝そうな顔で霊獣を見つめている。

「こんな立て続けに事件が起こるなんて。……あーもー!! 誰の仕業よ!」

 ラミーナの叫びにシエラは深々と頷く。確かに気持ちは分かる。旅が始まってから本当に本当に事件の連続だ。だがしかし叫ばないで欲しい。すると後ろを走っていた少女がシエラに追いつき、服の襟元を後ろからぐっと掴んだ。勿論、二人とも走ったままだ。

「ちょ……ッ!?」

「……あんた達が、霊獣をけしかけたんじゃないのか?」

 シエラの襟元を掴んだままで、少女は真剣な眼差しを向けている。シエラは軽く溜め息を吐いてから少女の手を振り払い、そして落ち着き払った声で言葉を紡ぐ。

「だからさっきから何度も言ってるんだけど……。話も聞かずに攻撃してくるなんてどうかしてるよ」

 最後の部分は最大の皮肉を込めた。言い返せたからか、少しだけシエラの苛立ちは収まるものの、それでもまだ心はざわめいている。少女はシエラの言葉に顔を俯かせ、かぼそく謝罪した。

「そんな事より、ねぇ。守護霊獣って何なの?」

 ラミーナは少女に微笑みを見せる。しかし目の輝きは鋭く容赦がなかった。少女は視線を霊獣に向けると、ゆっくりと口を開く。

「……守護霊獣とは、その名の通り遺跡を守護する霊獣だ。今から約二千年より前の遺跡には、守護霊獣が存在している」

「なるほどねぇ。けど、確か霊獣って魔物の一種でしょ? なんでそんなのが守護しているっていうのよ」

 ラミーナの疑問に、少女は僅かに眉間に皺を寄せる。「話せば長くなるが……」と前置きしてから、再び話し始める。

「かつて人は魔物と、そして神ときちんと共生していた。つまり今と違って、種族間で密接した生活を送っていたという事だ。そしてその中で霊獣は守衛として各々の村に存在していたと聞く」

「つまり、それが今でも遺跡にいて守ってくれてるって事なのね」

 こくりと少女は頷く。ラミーナも何やら神妙な面持ちで思案しており、シエラは肩身が狭くなる。そしておずおずと少女とラミーナを窺った。

「あのー、霊獣が魔物ってどういうこと? だって魔物って貴族、上級、中級、下級の四種類なんでしょ?」

 前にクラウドに説明されたのはこの四つだった。確か能力やら血統やらがどうのこうのと言っていた気がする。ラミーナは困ったように唸っていたが、すぐにぱっと顔を上げた。

「それは魔物の階級よ。霊獣は階級では貴族クラスで種類でいえば貴族種の中の霊獣っていう分類なの」

「すみません分かりません!」

「あーもう! 走りながら話すのって面倒くさいわね!! とにかく後で魔物については解説してあげる!!」

 ラミーナはそう言い放つと、シエラにそれ以上質問させてくれなかった。隣で少女が気の毒そうな視線を向けていたが、今はあえて気にしないでおく。

 それよりも今は霊獣をどうにかしないといけない。シエラは隣の少女に思い切って訊ねてみることにした。

「霊獣は役所に向かってるんだって。何か心当たりってない?」

「……いや、ないな。そもそも、霊獣が遺跡の外にいるなんて事自体が異常なんだ」

 少女は哀しそうに目を細めてしまう。どうやら遺跡に関する事は彼女にとって本当に大切な事らしい。

 シエラにぶつかった時と、先ほどクラウドに回し蹴りをした少女は別人だった。それほどに、彼女にとって遺跡は盲目的なものだと、傍から見ても分かる。

「……また、悲鳴?」

 ラミーナの呟きにシエラは顔を上げる。確かに、微かではあるが女性の甲高い叫びが聞こえる。金切り声、というやつだ。それに大声で何か威嚇するように叫ぶ声も聞こえる。霊獣が役所を襲い始めたのだろうか。バイソンは、ウエーバーは、クラウドは。シエラの中に不安の波がどっと押し寄せてきた。

「あの路地を曲がれば……!」

 役所はすぐそこだ。シエラ達は全速力で角を曲がる。

 そこには、霊獣を必死で止めようとしているクラウド達の姿があった。その後ろには、腰を抜かしたあの中年ガイドの姿もある。

「……どういう事だ?」

 少女の唖然とした呟きが響く。役所の人々は霊獣を捕まえようと様子を窺い、それが妙な緊張感を醸し出している。ウエーバーは先ほど魔法を破られてしまったのが大きく響いているのか、呼吸も荒く動きが鈍い。

「チィッ! おい、少し下がってろ!」

 クラウドが周りにいる人々に向かって叫ぶが、腰を抜かしているものが大半で、逃げることもできずにいる。それに先ほどから霊獣の視線は一点に向いている。先ほどまでガイドをし、少女に屈辱を受けた中年の女性だ。

「……いいいい一体、一体何が起きていると言うのですか!?」

 女性には残念なことに霊獣は見えていないらしい。腰を抜かしてただわたわたとしている。

「……まさか」

 その様子から何かを察したのか、少女は目を見開いた。そして霊獣の前に躍り出ると、両手を広げて立ちはだかった。

「落ち着け。大丈夫だ。ここに仇なす者はいないから」

「おい、あんた危ねぇ!」

 周りの制止を無視し、少女はゆっくりと霊獣に近づく。両手は広げたまま、しかしその目には堅固な意志がある。

「大丈夫だから。遺跡に帰るんだ。誰も邪魔はしないし、害を為そうとはしていない」

「グルルゥゥウゥウゥ……」

 少女の言葉に反応するように、霊獣は低く唸る。そして纏っていた殺気を消していく。良かった、これで一安心だ。そうシエラ達が想った瞬間。

「捕獲!」

 役所の人々が一斉に霊獣に向かって網や武器を投げ付けた。

 予想外の出来事に少女は勿論、シエラ達も動けない。大人しくなった霊獣は再び、鼓膜を揺らすほどの咆哮を上げ、荒々しく暴れ出す。

「お止め! ダメだ動いたら……!」

 少女は懸命に網や武器から霊獣を守ろうとするが、多勢に無勢。役所の人々は霊獣に尚も危害を加える。

 そしてついに霊獣の怒りが頂点に達したのか、尾を激しくはためかせ始めた。みるみるうちに地面は焼け焦げ、人々の悲鳴が木霊する。

「くそぅ、化け物め……!」

 男のその一言に、急に辺りの空気がひんやりとしたものに変わった。少女は無言で男の胸倉を掴むと、頬に思い切り拳を叩き込んだ。

「!?」

 突然の事に、シエラ達は勿論役所の人々も唖然としている。しかし少女は無表情で男に、今度は蹴りを入れた。

「……かる」

「は?」

「あんたに何が分かる!!」

 少女は数珠を男に向ける。魔力が収束していき、男の顔は段々と青褪めていく。それはそうだろう。こんな至近距離で魔法を放たれれば、ただではすまない。しかしこれは止めなければならない。シエラは少女に駆け寄ると、男との間に割ってはいる。

「待って。今は霊獣が先でしょ。……お願い、あなたの力を貸して」

 少女はシエラの言葉に頭を振る。これほどまでに少女を焚きつけるのは何だ。さっきの男の言葉の何がそんなに……。そう思ったが、その疑問の答えはすでに自分の中にあったような気がした。

「……そこをどけ」

「どかない。絶対、どかないから」

 シエラは直感で、ここでどいたら後で後悔する事が分かっていた。

 そして少女に影が差す。視線を持ち上げると、霊獣がこちらに向かって大きく手を振りかぶっていた。

「ッ!!」

 シエラは咄嗟に少女を前から抱き締め、大きく横に身体を捻る。後ろにいた男にまでは流石に気が回らなかった。地面が大きく削れた音と共に振り返れば、今シエラ達がいた場所には大きな穴と焼け焦げた跡がある。

「……せ、セーフ?」

「何がセーフだ馬鹿野郎」

 クラウドの咎めるような声が聞こえ、シエラは慌てて視線を上に持ち上げる。彼はシエラの真後ろに立ち小脇に男を抱え、眉間に皺を寄せていた。そして男を近くにいた人々に預ける。

「ったく。……もしもの事があったらどうするつもりだった!!」

「だから避けたじゃん!!」

「避けるならこっちも忘れるな!」

 普段と変わらぬ説教をかまされ、シエラは渋々引き下がる。クラウドがこう言う時は本当に危ないのだ。失ってはいけないものが絶対にそこにある。

 シエラも分かってはいるのだが、クラウドのように守る力がない。だからどうしても中途半端になってしまうのだ。そうは想っては、結局は言い訳になってしまうのかもしれないが。

「と、とにかく! さっさと霊獣をどうにかしないとね」

 シエラは気を持ち直すように立ち上がる。そして視線を座り込んでいる少女に向けると、右手を差し出した。

「お願い、力を貸して」

「……分かった」

 少女はその手を握り返すと、霊獣を見据えた。先ほどまでの哀しみは消えており、凛とした面立ちになっている。

「しかし、これはある意味で私の責任だ。……サポートを頼む」

 その言葉にシエラとクラウドは顔を見合わせる。ウエーバー、ラミーナ、バイソンは力強い微笑みを湛えていた。

「うん、任せて」

 シエラはウエーバーの元へと駆け寄る。そして両手を差し出し、深く息を吐き出す。

「私の魔力、使って」

「シエラ……。ありがとうございます」

 ウエーバーはシエラの手を握り締める。そこからどんどんシエラの魔力はウエーバーの中へと流れ込んでいく。魔力の受け渡しというのは、本来危険な事であり受け取る側に相当な技術が必要なのだ。

「これぐらいしか、役に立てないから」

 それでも今はそんな事に構っていられない。それにウエーバーならばきっと大丈夫だろう。そんな信頼関係も出来ていた。

「……ウエーバー、行くわよ」

 いつの間にかラミーナが近くに立っていた。ウエーバーに目配せすると、ラミーナは霊獣に向かって駆け出す。

「廉潔な精神、愛染の慈悲、倫理の在り処を知る者よ! 陣式封鎖――レクステイション・バインド!」

 詠唱と共に地面から無数の鎖が出現し、霊獣の周りの空間に伸びる。そして仄かに光ると、霊獣は身動きが取れなくなった。そしてウエーバーが詠唱を始める。

「廉潔な精神、愛染の慈悲、真理の在り処を知る者よ、今ここに倫理の扉は放たれた……。陣式封鎖――チェインズ・レクステイション!!」

 先ほどラミーナが出現させた鎖と同じものが、今度は魔法陣から現れる。固定された空間が更に固定され、霊獣はついに耐え切れなくなったのか、立つこともままならず、地面に倒れ込む。

 少女は霊獣の前に立つと、数珠を翳し目を閉じる。

「……私の声が聞こえるならば、示せ。久遠の流れを知る者よ、罪過の許しを請う者よ。……アルステイルの名において契りを」

 どうやら魔法の詠唱ではないらしい。シエラ達はただじっと少女と霊獣を見守っている。

 少女が目を開けると、霊獣は殺意と怒りをむき出しに荒く息を吐いている。雄々しく神々しかった面影は消え失せてしまったままだ。

「何故、こんな事を?」

 少女の問いかけに、辺りはしんと静まる。

 すると、何処からともなく声が響いてきた。それは脳に直接響き、重々しく哀しいものだった。シエラは思わず空を仰ぎ見るが、凛と澄んだ青空が広がっているだけだ。

「こちらだ」

「え……?」

 声を追って見ると、視線の先には霊獣がいる。そんな馬鹿な。シエラが苦笑いを浮かべると、霊獣は鋭く睨みつけてきた。

「人間との対話など、久方ぶりだ」

「しゃ、しゃ喋ってる!?」

「騒ぐでない。……そこの娘よ、もっとちこう寄れ」

 霊獣は少女にそう言うと、低く唸る。少女はゆっくりとした歩調で近づいていくと、霊獣の前で膝を折った。

 ――ていうか、イメージと違うんですけど。

 まさか霊獣と会話するなどとは夢にも想わなかった。それに勝手なイメージではあるが、あんな口調で話すとは、何だか裏切られた気分である。

「まさか、アンダルテールを分かる者がおったとは想わなんだ」

「私は……」

「皆まで言うな。分かっておる」

 ――いやぁ、そっちが分かってもこっちは分からんのですけどね。

 霊獣と少女のやり取りを見て、シエラは軽く溜め息を吐く。専門用語を言われても分からないし、第一まだ霊獣そのものも理解できていないのだ。

「……何故、遺跡を出てこんな事を?」

 改めて少女が霊獣にそう問いかけると、霊獣は暫く考え込むように黙ってしまう。

 そして突然、殺気を露わに咆哮を放とうとしたが、ウエーバーとラミーナが使った発動中の魔法に阻まれてしまった。

「あな憎くし! 人間がこれほど愚劣な存在になっているとは!!」

「……そこまで駆り立てるのは何だ」

「分からぬか娘よ! そこに居る者共が、どれほど我らを冒涜してきたことか……」

 その瞬間、少女の纏っていた空気が凍りついた。シエラは何か嫌な予感を感じ、慌てて少女の元へと駆け寄った。しかしその瞬間、シエラの宝玉が大きく波打った。共鳴に近いそれは、どす黒く常闇のように感じる。

「な、にこれ……」

 気力で何とか持ち直すが、玉の様な汗が額に浮かび上がっている。

 まるで霊獣の憎悪が全てシエラの心に、宝玉に伝わったかのような、そんな感覚だった。全てを飲み込む深い闇が何処までも続いており、出口が見えない。

「娘よ、分からぬ訳ではあるまい?」

 霊獣の言葉に、僅かに少女が揺らいだ。

 そっちに行ってはいけない。

 そう言いたいのに、シエラの口は、声帯は何も紡いでくれない。伝わってくる憎悪はあまりにも大きく、脳に直接響いてくる声に心を揺さぶられる。クラウドやウエーバー、それにラミーナとバイソンも険しい表情をしたまま動けずにいる。それほどに、霊獣の言葉は揺さぶる力を持っているのだ。

「……長い年月で、我らの存在も薄らいでいった。それは構わん。ただ、遺跡に関わる一部の者が忘れずにいてくれれば」

 ――あぁ、そうか。……寂しかったのか。

 長い年月によって忘れ去られ、ただ孤独に遺跡に居続ける事。それがどれほど心細く寂しいことだったのか。あれほど雄々しく神々しい霊獣ですら、孤独に耐えられない。寂しくて、誰かに気づいて欲しくて、けれどそれが叶う事は今の今までなかった。

 そこでふと、シエラの中に一つの疑問が浮かんだ。それならば何故、今霊獣はその姿を現すことが出来たのか。シエラの考えを読み取ったのか、霊獣は視線をこちらに向けてきた。

「それは……我にも分からぬ」

「え? 分からないって」

「気づけば、我は姿を見せていた。そしてそこの人間を見た瞬間、殺してやりたくなったのだ」

 そこの人間。霊獣の殺気は、やはりガイドの中年女性に向いている。出現の原因はなんであれ、今回の暴走はこのマフィオの遺跡関係者にあるらしい。

「……どうしたら、気が済む?」

 シエラの問いかけを霊獣は鼻で笑う。

「気が済む日などもう来ぬ。そうだな、仮にそんな日が来るとするならば、それは全ての終焉だ」

 この霊獣は、深い哀しみに包まれている。全てを諦め終わりを望むほどに、心が疲弊しているのだ。それは魔法学校にいた頃の自分と同じで、シエラは大きく頭を振った。先ほど黙り込んでいた少女は、力なく霊獣を押さえ込んでいる鎖に触れる。

「……アレフ、テット、ツァディー、カフ」

「待って、何をするの!?」

 感情の消えてしまったような少女の身体を、シエラは懸命に揺さぶる。しかし彼女が詠唱を止める事はない。ただ淡々と言葉を紡ぐ。

「ギメル、ラメッド、メム、レーシュ」

 そこでシエラは気づく。少女が泣いている事に。

 静かに涙を零しながら、固定された空間の中に腕を突っ込んだ。そして霊獣の頭を撫でると、その額に指で印を結ぶ。

「……クレイフ」

 パリンッ――。

 ガラスが弾けるような音と共に光が溢れ出し、霊獣が薄くなっていく。透けている、と言った方が正しいか。

「……すまない。私にはこれしか出来ないのだ」

 少女は数珠を翳すと、涙で擦れた声で何かを呟いた。その瞬間、霊獣がとても穏やかな表情で目を閉じた。

 数珠に光が収束していき、魔法ごと霊獣を飲み込んだ。辺りを静寂が包み込み、皆呆気に取られたような表情をしている。特に役所の人々の慌て方は凄い。

「……あれ、霊獣どこ行ったんだ?」

 はっと我に返ったようにバイソンがそう呟くと、シエラと少女は顔を見合わせた。霊獣の声が聞こえた辺りからどうにも空気がおかしかったが、どうやら意識が飛んでいたらしい。

「それにしても、霊獣はどうなったの?」

「遺跡に帰した。暫くは眠ったままだろう」

 結局謎が多く残ってしまった。しかし、霊獣による被害は拡大せずに済んだのだ。とりあえずは、これでいいのだろう。

 シエラはクラウド達の元に歩み寄る。クラウドは眉間に皺を寄せて不思議そうな顔をしているが、シエラの様子から何かを察したらしい。ラミーナ達も何も言わずに、ただ真剣な眼差しでいる。

「……ま、とにかく無事なら何でもいいわ。宿に戻りましょうよ」

 ラミーナがシエラの顔を見てから、にっこりと笑う。シエラもラミーナに笑い返すと、バイソンもウエーバーとクラウドの肩を組んで笑っている。

「ま、待ってくれ」

「ん?」

 振り返ると、俯いた少女が口を開閉させていた。何か言おうとしているようだが、中々言葉が出てこない。

「どうしたんだよ」

 バイソンが優しい声で訊ねると、少女は思い切ったように顔を上げ――そして勢いよく頭を下げた。

「すまなかった!! ……その、攻撃してしまって」

「……気にするな。あんたのお陰で、霊獣は何とかなったようなもんだしな」

 クラウドの言葉に安心したのか、少女は肩の力を抜く。そしてもう一度頭を下げた。微笑ましくその光景を見ていたシエラだったが、どくりと鼓動が大きく跳ねるのを感じ、胸を押さえた。

「シエラ、どうしたんですか……?」

「いや、なんか……宝玉が、疼いて……」

 荒く息を吐き出しているシエラの異変に、クラウドやバイソンも心配そうに顔を歪めている。

「宝玉って、おい大丈夫か!? しっかりしろ!」

 ――さっきの、霊獣のせい、なのかなぁ……。

 どくん、どくんと鼓動が波打つ。

 段々と早くなるそれは、次第に苦痛を伴い全身に駆け巡るようになった。

「シエラ! シエラ!」

 ウエーバーに何度も名前を呼ばれ、ラミーナに背中を擦られる。しかし、一向に治まる気配がない。

「……あ、あぁぁああぁあぁぁあぁぁ!!!!」

 そしてシエラの叫びと共に、辺りは光に覆い尽くされた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ