幕間
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静寂は心地よい。それは彼女が物心つく前から、彼女の中にあった。何故だか、昔から雑踏が嫌いだった。すれ違う人々は、いつも何かを諦めている――そう感じるのだ。それは今でも変わる事無く、しかし彼女が見る景色は徐々に変化していた。
気がつけば、あんなに遠いと想っていた天井ですら近くなっていた。手を伸ばせば、いつかすべてを手に入れることができる。そう信じて疑わないのは、いつからだったか。
「アン様。そんな所でうたたねされては、お風邪を召しますよ」
思考の海に潜っていたアンは、その優しい声に我に返った。見上げれば、目尻を下げたエリーザが毛布をもっている。
「……エリーザ」
アンは今自分がどんな場所にいたのか、それすら失念していた。どうやら、窓辺で月を眺めながら眠ってしまっていたらしい。
「今宵は満月ですね。……夢は、ご覧になられましたか?」
エリーザの問いかけに、アンは静かに首を横に振る。この頃、全く夢を見なくなってしまった。
夢といっても、アンの夢は夢に非ず。それは正夢でもあり、予知夢でもあり、未来を映す鏡でもある。昔は毎晩のように見ていたのが、ここ一年ほどぱったりと見なくなってしまった。その力が一番発揮されるのが満月の夜だが、最近では満月ですら夢の力は顕現しない。アンはそっと己の額に刻まれた紋章に触れた。この紋章はアンが生まれたときから額にあり、この紋章こそがアンの存在意義でもある。
「……私は、アールフィルト。しかし、何故力は薄れていくのだ」
アンの零した言葉に、エリーザはただ黙り込む。部屋に差し込んでいた月光が雲に遮られる。その時、突然アンの紋章が光った。そして、アンの脳内に映像が再生されはじめる。
雨が、降っていた。雨の中で、誰かが泣いていた。薄暗い森の中で、たった一人で。ウェーブした茶髪は腰ほどの長さがあり、顔ははっきりとしないものの、恐らく女性だと判断できる。泣きながら、何かしきりに叫んでいる。叫んでいるが、声は聞こえない。ただ、雨に濡れながら彼女は泣いている。苦しそうに、懺悔するように。
そしてふいに、映像は途切れた。
アンはゆっくりと目を開ける。一体これは何の未来なのか。思考を巡らせてみるが、今回ばかりは検討もつかない。
「アン様、如何でした」
「駄目だ、分からぬ。ただ、雨の中、森で泣いている女が見えた」
「雨の中で……?」
エリーザも首を傾げている。
今まで見てきた未来は、もっと具体的でより鮮明に事実を告げてきた。誰がどこで何をして、何が起きるのか。その後どうなったのか。
やはり、能力が薄れているのだ。アンはそう結論付けると、ゆっくりと立ち上がる。
「エリーザ。適合者の動向はどうだ」
「はい。彼らはマフィオに到着した模様です。どうやら、遺跡内部を調べるようで……」
「そうか」
遺跡、か。そこに何かヒントとなるものはあるだろうか。そう想い、しかしすぐにその考えを打ち払う。
馬鹿馬鹿しい。今の目的は宝玉の奪取だ。それ以外は必要ない。
何故力が薄れたのか、あの映像は何なのか。そんなもの、後で幾らでも考えればいい。映像は近い未来で見えることでもある。焦っても仕方が無いのだ。
「エリーザ。グレイと国内はどうだ」
アンが問いかけると、エリーザは眉間に皺を寄せた。暫し戸惑いの色を浮かべたものの、しっかりとアンに向き直ると跪いた。
「……申し訳ありません。グレイ、あの男なのですが、行方を眩ました模様です。我々が動いているのに気づいたのでしょう。国内は上層部が未だ不安定です。今回のことで軋轢が生じたのでしょう。賛成派と反対派での武力抗争も……」
その報告に、アンは無表情のままで「愚か者共めが」と口汚く罵った。アンにしては珍しい物言いに、エリーザは僅かに目を見開く。
「ならばグレイの事はもう良い。あの男はこちらが下手に刺激しなければ問題はないはずだ。問題は上の愚か者共だ。あれほど私が念を押したというのに……」
アンはすっと目を細める。
世界情勢が不安定な今、内部で揉めればそれは国を危うくすることに直結する。七大国ですら手を拱いているというのに。
「エリーザ、上に伝えろ。今はそのような些事で争うな。これ以上民を苦しめれば、次に飛ぶのは貴様らの首だ、とな」
「承知仕りました」
エリーザが一瞬にして消えると、アンはすぐさま思考をめぐらせる。
一刻も早く、宝玉を奪う必要がある。
やはり、時間がないのだ。世界にも、アン自身にも、何よりもあの愚か者共に。アンは窓の外に浮かぶ満月をじっと見つめると、身を翻し部屋を後にした。




