青から白へ
「今は、私が、涙を流してはならない」
心を押し殺すかのように、握り返す守夏の手に願掛けをするようにして呟いた。
それから『豊山』は三ノ輪浜離殿に通う日々を続けた。
守夏は客分のまま『豊山』に身を置くことになり 体を苛んだ熱と痛みが治まる頃には、一つの季節が巡っていた。
『紅葉山』によって傷つけられた体は、その多く『豊山』の介抱により回復の兆しを見せたが、左目だけは失ったまま戻ることはなかった。
付け慣れぬ眼帯が、やっと肌に馴染む頃
夏を過ぎ秋の気配を纏った竜田姫がやってくる。
『豊山』の者は守夏を亡き浮冬と共に『葵山』を救った英傑として見て居て、誰もが『紅葉山一ノ宮麓』として守夏を丁重に扱った。
だが守夏は理解している。
もう、自分は『紅葉山一ノ宮麓』ではない。
侍従ではないのだ。
侍従は、その山の至宝と繋がっている。
かつて己が腰に穿いた白刃こそが、『紅葉山』との繋がりであり、身分の証明であった。
だがその剱の存在を感じ取ることがもうできない。
そしてどれだけ離れていても温かさを感じられた『紅葉山』の気配を、もう感じないのだ。
秋がやってくれば、風が薄の穂を撫で、はぎの花を揺らし、豆のような葉をくすぐる気配を感じた。
なでしこの花のかおり、桔梗の茄子色を鮮やかに想い浮かべることができたのに、今になってはもうただの季節の移ろいとしてぼんやりと眺めることしかできない。
稲荷の世の秋を支配する山の侍従であれば、空気のように感じられた鮮やかな橙を
今は沈む夕日にしか思い起こせない。
誰の力になることもなければ、心に添う力もない。
無力な山ノ狐だった。
誇り高き三朱の侍従として永劫を約束されていた守夏にとっては地獄の底のような日々となった。
「そなたの身の上について、話をしておこうと思う」
さねかずらが赤い実を結びだし、秋深まる頃。
全快した守夏を見舞いに訪れた『豊山』が、重い口を開いた。
守夏への処罰についてついに触れることになったのだ。
守夏は処断を覚悟をしている。いや、期待すらしていた。
どうして自分が無様な姿をさらし生き残らねばならないのかと、意識は破滅的な思考に溺れ
日々『豊山』が冷静に接してくれているその裏で、どれほどの恨みを煮えたぎらせているのだろうかと、常々守夏は考えていた。
守夏が主を改心させることができれば、浮冬を失うことはなかったのだ。
「まず現状そなたはすでに『紅葉山一ノ宮麓』ではない。これは正式に『紅葉山』から総本山に上げられている」
ずしりと、守夏の胃に重いものが乗ったような気がした。
その報告も守夏の左目を奪った時のように、無慈悲無感情に行ったのであろうと思うと、胃だけでなく心臓まで痛みを訴えてくるようだ。
「つまりそなたはいま、自由の身だ。出自は総本山『不死見』であるから、本山へ戻ることも可能であろう。だがこの『豊山』預かりとしている。理由は明白、負傷の身の上であったからだ」
守夏の長い銀髪が畳の上で輝いている。
体を思って『豊山』が姿勢を崩していいと言ったが、背筋を張ったまま守夏は不動のままで言葉を漏らさぬように耳にしている。
「ここまでが今のそなたの身の上だ」
「重ね重ねのご配慮痛み入ります」
「私の考えを言おう。そなたを『紅葉山』に戻す気はない。戻りたいと思う心あるかも知れぬが、それは禁ずる。私はこの件において『紅葉山』の行為を認める気は一切にない」
守夏は自分自身が『紅葉山』に戻りたがっているかどうか、分からなかった。
繋がりが断たれてしまった以上に、受けた傷がそれを拒否している。
現実は『紅葉山』に戻ろうとする心を否定していた。
「そなたはあれの侍従ではあったが、今は違う。あれと考えを違えたからこそ、こうしてここにおるのだからな」
「……真の侍従であれば、朱秦様のお考えの過ちを正すことができたはずでした。私にそれは敵いませんでした。私はすでに無用のものです。どうか処断を」
「違う。そなたの必死の願いを聞き入れなかった『紅葉山』に罪がある」
「『大豊山』」
「そなたには罪はない。よいか、そなたに罪はない」
二度はっきりと『豊山』が放った言葉に、守夏は救われた。
膝に揃えた手にぎゅっと力を込める。
震えていた。