青から白へ
守夏は豊山の本殿から離れた麓である三ノ輪で目を覚ました。
景色には色があったが、平衡感覚は偏っている。
左目が効いていないことはすぐに分かった。
治療のためにあてがわれた眼帯に手をやろうとするが、体が思うように動かない。
熱があるのだろうか、自分の意識が朦朧としているのが分かった。
「目に触れるな、酷くなる」
守夏の手をそっと引く手。
白い手に守夏は「朱秦様」と主の名前を呼んだ。
「私は『紅葉山』ではない、『豊山』正宗朱路だ」
『豊山』がそう答えたが、朦朧とした守夏にはよく聞こえない。
守夏には主の気配を悟る力は奪われていた。
頼りになるものは五感だけだが、それは熱に冒されてまともに仕事をしてはくれない。
その手が『紅葉山』雅親朱秦であればと思う守夏の思いだけが『豊山』の手を握りしめている。
「朱秦様」
朦朧と守夏が口にする名前に、『豊山』はもう否定をせずに薬湯を口に運んでやる。
綿に染みこませた薬湯が守夏の乾いて切れた唇を潤す。
痛みも熱も大変なものだろう。
『豊山』は主に裏切られた可哀想な侍従を、自らの手で手厚く看病していた。
己の侍従であった浮冬にしてやれなかったことを、義弟である守夏にしてやることで愛した侍従へのたむけにしようと考えていた。
浮冬と守夏。
それぞれ総本山の侍従である『不死見稲荷上ノ社』、『不死見稲荷中ノ社』の子である。
当然のように三朱侍従を賜り、互いに義兄弟の盃を交わした仲だった。
『紅葉山』が『葵山』を強奪した一件から、『豊山』は守夏と接する機会が増えた。浮冬より幼くはあるが真っ直ぐな心と忠誠心は清水のようであると思う。
突然乱心した主のために、今一度、今一度と『豊山』が怒り任せに『紅葉山』を焼き払うのをなだめた。
『紅葉山』と『豊山』の架け橋であったが、その結果がこれだ。
無残としか、言いようがなかった。
生涯忠誠を誓った主に、これほどまでの傷を与えられるとは。
常日頃の『紅葉山』からは考えられない暴挙だ。
何もかも、全く納得がいかない。
真実を自らの感覚で否定することはないが、『紅葉山』が愛する侍従を踏みにじり、妹の『葵山』の権威尊厳を引きちぎり蹂躙するとは思えない。
そんな存在ではなかったはずなのだ。
だがそんな感傷に胸を痛めることに、意味はない。
結果、『紅葉山』は狂ったのだと意識を定め裁いて行かねばならない。
失った浮冬と、裏切られた守夏、そして巻き起こった弟妹間の問題を三朱として調停していかねばならない。
息を吐く。
『豊山』はうなされる守夏を見下ろして自嘲気味に笑った。
「浮…………冬……」
何度目になるのか、あてもないため息と共に侍従の名を呼ぶ。
呼べばいつも側に寄り何なりとこなしてくれた。
今は誰も寄り添うことはない。
空虚が『豊山』の横を抜けていくだけだ。
伏せる守夏以外は誰もこの部屋にはいない。
丸窓から差し込む光が、伏せる守夏と『豊山』を影にして、外の苔蒸す山林に丸窓と共に投影されている。
久照もこの浜離殿に身を置く山の狐たちも、皆席を外していた。
采配を続け多忙な『豊山』はここでやっとひとりになれた。
守夏が握りしめたままの手にわずかながらに力を込めて、『豊山』は俯いて唇を噛む。
うなされる守夏が、また乾いた唇で『紅葉山』の名を呼んだ。
「朱秦様」
豊山三ノ輪の浜離殿の一間。
主を失った侍従、侍従を失った主。
互いに別のものへ深く心を寄せながら、ぎゅっと手を握りしめ合っている。