赤から青へ
手が震えて、自分を抑えられる自信がない。
必死に唇を噛み、咲夜は涙をこらえようとした。
いっそわんわんと泣いてしまう方が潔いと思えるほどに、くぐもった呻きを上げる咲夜を、『豊山』は無慈悲に見下ろしていた。
「そなたも恥辱に耐えよく生きてくれてたと思う。だが兄として言っておこう」
言葉だけで咲夜の息の根を止めてしまいそうな迫力。
この場にいる全てのものが、唾を飲み込むことすら躊躇われた。
何も動かない。
動くのは『豊山』の手にした扇から下がる房だけだ。
「いつまでも妹気分でおるのは止めよ。そなたは姉だ。全ての女稲荷の手本になるべきおなごである」
そこまでよどみなく告げると、すぐに側に控えている松緒へ視線を投げた。
櫻花と吉水が左遷されたのだ。次は当然松緒の番であると、誰しもが思い至った。
「手本になるべきおなごには、それに相応しい侍女を付けねばならん……」
「止めて下さい」
咲夜の絶叫に、『豊山』の視線で命じられた処断へ動こうとした茂野の手が止まった。
「もう、哀しいことは、やめてください」
「哀しい……?」
『豊山』はその言葉に反応した。
「こうして『豊山』のお兄様のところへ、やっと、参じることができたのに、もう、血を流すのはお止め下さい。妾の罪は、妾がこの身で償います」
『豊山』は、一度視線を久照へ投げた。
「……下がれ」
泣きわめく時雨を、命を受けて久照は抱き上げた。
「松緒はそなたの社殿に置け。支倉、連れていけ」
咲夜の壁となっていた松緒の腕を支倉は引いた。
だが松緒は当然その場を守ろうとした。
しかし強く手を引かれると部屋の外へと投げ出された。
「咲夜様!」
松緒が障子に爪を立てて必死に場を守ろうとするが、その手を久照が掬い上げた。
「儂からの個人的なお願いだ、松緒殿。あなたの姫君をこれ以上悲しませたくないのであれば、逆らう事はされますな」
「久照様ですが、どう考えてもこれは『豊山』の横暴でございましょう。いくら三朱といえど、我が『葵山』の内々まで口出しをする権利はどこにもありません。いくら侍従であったとしても、三朱『紅葉山』に刃向かうことができるとお思いですか。兄たちは山を守るという責務があったのです」
「『大豊山』がなさることが、『葵山』のものにとっては不条理に思うのも分かる。だがこの一件で『豊山』が受けた損失は遥かに大きいのもまた、事実なのだ」
「そ、それは──しかし、全ては『大紅葉山』が」
「お分かりにはならないか、『大紅葉山』は『大豊山』が最も古くから連れ添いし御方。その御方に裏切られた事実がどれだけあの方のお心を苦しめているか、想像がつくだろう」
「……」
「ましてや、我らが要である浮冬様を亡くされたのだ」
久照は抱えていた時雨を松緒に手渡し、複雑な面持ちのまま、『葵山』付けを命じられた二柱の侍従に下がらせるように指示した。
松緒も、もう無駄に争う姿勢は見せなかった。
「『大紅葉山』には追って沙汰が下ることでしょう。その時、松緒殿の兄上らの処罰も下る。今は待たれよ」
二柱だけになった奥の院。
障子の前には久照が立ち誰も邪魔に入ることはできない。
俯いて泣く咲夜を、『豊山』は黙って見下ろしていたが「顔を上げよ」と一度だけ咲夜に声をかけた。
咲夜は泣くことはやめて俯いていたが、その命令には答えられなかった。
「そなたは私が憎いか」
咲夜は震える唇で、答えを返そうとした。
だが罪のはじまりを思えば思いをぶつけることはできない。
だがその迷いを『豊山』は見透かしている。
勝手に他山の事情に足を踏み入れ、愛すべき侍従を奪ったのだ。
恨んで当然である。
だが自分は違うのだと、『豊山』は続けた。
「私の浮冬はそなたを救いだした翌朝に逝った、だが、それを『紅葉山』にどうこう言うつもりは一切ない」
「……なぜ、です。浮冬はお兄様がとても愛し育てた、『豊山一ノ輪麓』ではないのですか」
「浮冬は私の命令で『紅葉山』へ赴いた。つまりは私の命令で死んだ。侍従として役目を果たして逝ったのだ。稲荷神として何ら思うところはない」
「浮冬は、あれは、立場やその役目以上にひとつの個としてお兄様を愛していました。『豊山』と関係のない妾でさえそれが痛い程に分かるというのに、それなのに浮冬の為に涙を流すこともないというのですか」
正論なのだろうが、非情だ。
本当であれば自分が一番にこの『豊山』へ嫁入りすることで、三朱の頂点となるべき存在だった。
こういう結果になったことは、もしかしたら正しいことだったのかもしれないとすら思う。
この兄には、心というものがないのだろうか。
「浮冬は『豊山一ノ輪麓』であるぞ。我が尊厳と権利を守るのが役目である。そしてそれこそがあれの最も優先すべきことで、果たすべきことだ」
障子から差し込む外の明かりによって、表情は伺えない。
だが先ほどと変わらない、冷徹な表情であると推察は容易かった。
「『葵山』」
咲夜は、はじめて『豊山』の兄から山の名で呼ばれた気がした。
こんな形で、尊敬すべき兄に稲荷神としての名を呼ばれたくはなかった。
あまりにも皮肉めいた、咲夜の身勝手な行動の全てに釘をさすような呼びかけであった。
「そなたは役目を果たすと言ったな。──その覚悟を、示してもらおう」




