黒から桜色へ
その所作ですぐに左手こそが利き手なのだと気づいたが、その切っ先は吉水の抜刀より早かった。
山ノ狐の動きではない。 陰陽術を使ったのか、それとも誰かの加護が付随されたのか。
早い!
瞬間的に吉水の瞼の裏に呼び出されたのは守夏と真剣に立ち向かい刃交えた時のこと。
だがその映像も刹那に消え、松緒の姿が浮かび、そして時雨と咲夜の顔がだぶり首が飛ぶ覚悟をした。
「そこまで!」
が、声を上げて時を止めたのは鬼嶽だった。
「吉水を処断することは、総本山の使いとして認めない。お前の負けだ吉水」
覚悟をして止めた息が再び吉水の肺に酸素を送り込む。
それで精一杯の強がりを放ってやった。
「鬼嶽、俺はまだ負けてもいないし、お墨付きもやるつもりはないぜ」
「いえ貴方様は負けです」
膝をついた吉水に茂野ははっきり言ってやった。
決定付けられた『弱さ』は吉水にとっては救いである。
弱さを認めた時吉水は多くのものから、解放されるのだと茂野は信じていた。
「総本山からの使者が判断されたことならば、それが絶対のはずです」
「……は、くそが。言いたい放題だな。だから『豊山』の狐は嫌なんだよ」
吉水は納得しかねる表情をしていたが、濡れた髪を振るい顔を上げた。
「『大豊山』、もういいでしょ?」
鬼嶽は高殿から見下ろす『豊山』に確認をした。
『豊山』は蒼白い顔をした吉水を一瞥してから
「墨付きをどうするかは、吉水の決定だろう。私はこれで下がる」
それだけ言って本殿へと戻っていってしまった。
久照はその後を追ったが、代わりに高殿から時雨が飛び降りてきた。
「傷の軟膏なら村上に持たせている。持ってこさせようか」
「散れ、お前の顔なんて見たくない」
「私はお前など知らないが、それでも健闘を尽くした者に払う礼儀くらいは覚えているぞ。特にお前みたいに自分の弱さに嘆く気持ちは私もよく分かるからな」
時雨は二ノ輪に置いたままの村上の所へと駆け出していく。
小さなその背中と揺れる黒髪を見守りながら、吉水は鼻で笑うような仕草をしてみせた。
「咲夜と似た顔で、俺の心配なんかすんな……」
「吉水様、時雨様は『大豊山』が必ず正しくお育て下さいます」
「あんな餓鬼の話は俺には関係ない」
そこまで言うと、やっと張り詰めた頬の緊張をほぐしたのか、何か憑きものが落ちたような顔で、吉水は茂野を見上げた。
「それより松緒はな、怒らせたら恐い。よく覚えておけよ」
吉水はこちらを黙って見つめて居る松緒を示唆した。
「でも結構いいおなごだ。分かってるだろうけどな」




