黒から桜色へ
「茂野!」
時雨が叫ぶと茂野ではなく吉水が腰に穿いた白刃を抜いた。
『大江山』が与えた白刃は血曇りひとつなくその切っ先を時雨へ向ける。
時雨は乗り出していた身を引いた。
「『大豊山』よ。褒美がもらえるなら、咲夜の生を狂わせたこいつを切らせろ」
向けられた敵意に対抗するように時雨は唇を噛み、望むのなら立ち向かってやろうとばかりに吉水を睨んだ。
だが『豊山』は立ち向かおうとする時雨の手を引いて、己の後方へ押し込む。
「己の役目力不足の結果を消せば、全て帳消しになると思うなよ吉水」
「吉水様」
うずくまったまま倒れていた茂野が、壊れかけの機械のように震えながら身を起こし声を上げた。
「結構本気で急所に入れたつもりだったが」
吉水は半目で茂野へ視線をやった。着崩れた着物の合間から見えるのは守り袋だろうか。
茂野は懐に忍ばせたその守り袋を握り締めると、歯をきつく噛みしめる。
「『葵山』は時雨様を未来に生かすと決めておられる。不憫な身の上であっても正しく導こうとされておられる。それを、邪魔させるわけにはいかない」
「咲夜は優しいおなごだからな、こいつを恨んだり殺したりはできないだろう。だから俺が代わってやるだけだ」
以前であれば『豊山』は吉水の考えを支持しただろう。
初めて意見があったなと笑みを寄越したかもしれない。だが今はそれを拒みはね付けた。
茂野もはね除ける思いは同じだった。
「侍従位を持たない上でのあなたの行いは、重罪となります。そうなれば私は貴方を救えません」
「俺は救われることなんか望んでない。俺は救いたかったんだよ、神楽殿守」
歯を強く噛みしめる音が、野の耳にも届く。
嘶きは嵐にも似て、周囲を圧倒した。
「私も救いたいのです。『葵山』と松緒様の願いの為にも」
「茂野、負けるな!」
時雨の心からの願いは夏風を呼び、周囲を取り巻いた。
願いは同じ思いを吉水の手前、胸の奥に押し込んで見守っていた松緒の心に共鳴を呼び掛ける。
鍵をしめて決してこの場では吐露しないようにと思っていた気持ちが溢れ、松緒の口からも飛び出した。
「茂野様……どうか負けないで」
その囁きを最初に聞いたのは当然隣にいた久照だけだったが、松緒は百日紅の木の下から歩み寄ると何年ぶりか声を張り上げた。
「茂野様、どうか白星を!」
時雨の願いと松緒の願いは茂野の所まで届いた。
ぐるぐると異様な気の巡りを繰り返す体が、ふと軽くなる。
活を入れて、身を持ち直した。
吉水の線上にいる松緒は泣きぼくろのある目の方を痙攣させ、堪えられぬという風に泣いていた。
嫁にするおなごの前で、これ以上恥をさらすわけにはいかない。
茂野は気を持ち直してきっと前方の吉水を見定める。
「おい、松緒……お前」
あの松緒が『豊山』の山ノ狐の肩を持った。
立場を守るための演技かとも思ったが、吉水は長い松緒との暮らしの中で松緒が嘘をついて泣く時と、嘘をつかずに泣く時の顔くらい見分けられた。
大体その区別が付けられるようになったのは、松緒自身が吉水に言ったものだった。
「お兄様はおなごに二股が露見して泣き通しで謝る時、心が伴っていないことがよくわかります。咲夜様に怒られて泣く時は目尻を振るわせるので、すぐ本気か本気でないか分かるのです」
そう言われて吉水は「それは山のものには黙っておけよ」と口止めしたが、言われてみればその通りで、それどころか言った松緒自身も同じだった。
兄妹なのだと思わされた。
「お前……」
半ば放心状態の吉水に向かって、茂野は走り出した。
重い足取りはやがて本調子を取り戻す。
戦場を駆けてこそ武門の茂野。
きつく歯を噛みしめて脇差しを抜いて振りかざすが、吉水は手の甲で脇差しを払った。一文字に手の甲に走る赤い線。
吉水は躊躇せず懐ががら空きになった茂野を二等分にすべく己が白刃を放とうとした。
だが払われ右手から空中に浮いた脇差しは、半回転した茂野の左手が器用に捉えた。




