黒から桜色へ
茂野は水牢に閉じ込めた吉水へ近づいた。
余裕ある足取りで自ら作り上げた水牢へ手を差し向けた。その瞬間水牢は弾け、吉水は地に滑り落ちた。
盛大に咳き込み濡れた白銀の髪を払うと、その首筋に茂野の白刃が乗った。
「さすが『豊山』が準備しただけはある。あの手この手と全く退屈しないな」
軽く首筋に宛がわれた白刃を払い、濡れた着物の袖を払う。
「水もしたたるいい男すぎて、これじゃあどうにもならんな」
「貴方様は己の力を発揮できなかったことで『葵山』に恨まれているとお思いのようですが、それは杞憂であると思います」
「それがお前に分かると?」
「『葵山』は決して侍従の力不足を恨んでなどおられません。むしろ己の不甲斐なさを恨んでおられます」
「そのどうしようもない悩みを拭えなかったのは俺だ」
「それはお認め下さい。それでよいではありませんか。貴方様は力不足であられた。『葵山』もそうであった」
「そんなへなちょこなところだけ主従お揃いじゃ困るんだよ。お前は『葵山中千咲』吉水が、己の醜さ力不足を認めて屈せと言うか?」
「屈して下さい。そうすれば私は貴方を守れます」
はっと吉水は笑った。
一度笑うと腹の底から笑いが溢れて止まらない。
袖からも髪からも、大仰に笑いころげる仕草の端々から雫が飛んだ。
「あっはっは、ははは。なんだ少し優勢だというだけでお墨付きがもらえたと思ったか」
「負けを──認めなければ、認めさせるまで私は力を振るいます」
「やれよ。こざかしい。図に乗るな豊山の山ノ狐風情が!」
「『乱れ丸菊』!」
吉水の敵意に呼応するように茂野は両手を合わせ陰陽術『乱れ丸菊』を紡ぎ前方に放った。
夜空を彩る花火のように咲き乱れる美しさの裏に、まき散らされる火炎の粉は硝煙を上げて本殿前玉砂利を焦がす。
だが吉水は腹の底から沸き出でる笑いに麻痺したか避けもせずに、茂野の間合いに飛び込んだ。
肘を突き上げて一撃、みぞおちに入った一撃は加速した勢いも合わさって茂野をはじき飛ばした。
空中を駆け玉砂利に着地すると、石を弾き茂野は地に転がった。
跳ね上がる茂野に吉水は容赦なく追撃をした。
官位を失ったとしても『葵山』侍従の名は今も吉水に燦然と輝いてみえた。
「俺に説教するなら剣を抜かせてからにするんだな、神楽殿守」
転がった茂野はもう退場だと判断したのか、支倉は地に突き刺さっていた槍を取りに走り出す。だが支倉と槍の直線上に吉水の影が落ちる。
白袴をはためかせ、まるで蹴鞠でもするかのように支倉の横顔を蹴散らした。
圧倒的というのは簡単だったが、言葉を贈るのなら見事というしかない。
押されて見えても茂野も支倉も剣を抜いて本気で立ち向かっているというのに吉水はまだ武器を手にする様子もない。
「弊殿守、お前は筋はいいけど執念を宿す場所を間違えてる。神楽殿守は力が伴わないし戯れ事が耳に煩い」
吉水は手にした槍を力を込めて半分に折ると場外へと放り投げた。
まさに櫻花がいう通りの児戯だった。
「茂野! 支倉! 起きろ! 負けてはならんぞ!」
時雨から声援が投げられた。
頭上から降った時雨の応援に、吉水はこれ以上もないほどに顔を歪めて嫌悪感を示した。
「外野は黙っていやがれ」
『豊山』は表情を変える様子もなくただ高欄から吉水を見下ろしていたが隣にいた時雨は違った。身を乗り出すと、声を張り上げた。
「茂野! 支倉! 『豊山』のお兄様に恥をかかせるつもりなのか?」
支倉が先にその声に応じて膝をついて立ち上がった。
立ち上がったが、吉水の一撃によって視界は横八文字に揺れ定まらない。




