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青い嘘  作者: しいな けい
【漆】
44/68

黒から榛色へ

 久照と酒を酌み交わして座敷を出ると、美雪が茂野を呼び止めた。

「これから松緒様のところへ?」

「追い返されたとしても一応、改めてご挨拶を。強引な事運びになったことを詫びねばとも思います」

 茂野の心配に、美雪は笑ってしまった。

「茂野様らしい」

 らしい──と言いつつも、美雪は茂野が今までと違う側面を見せてきたと思う。

 美雪は茂野を随分と長く見てきた。

 陰陽術の修行風景が最初の記憶にある。素質の問題も多くあったが、多くが挫折していく中で茂野が最年少で久照の師事を受けていた。

 当時は茂野家の三男坊で甘え上手で、菓子好きのどこにでもいる山ノ狐の童だった。

 最近出入りしている『紅葉山』出自の山ノ狐村上よりずっと幼く、正座をするもすぐに崩してしまうような年だった。

 厳しい修行に泣きながらも、久照と懇意にしたいと願う当主の命令で通い続けていたような記憶がある。

それでも三男であったから、家門を継ぐ重責はなく明るく無邪気な愛らしさがあったし、兄弟子に跳ねっ毛を冷やかされて取っ組み合いの喧嘩をするなど年相応であったのだ。

 転がり落ちてきた総領の立場を、茂野自身がどう思っていたかを口上で聞いたことは美雪にはない。

 茂野は尊敬していた兄を失い、泣き崩れる母と一門の未来を憂う父を支えるために、名門の名に恥じないようにと、今まで以上に強くあろうと決めたのは、そのころだろう。

兄の遺品となった守り袋を懐にしまい、兄のようにあろうと振る舞いはじめた。癖っ毛を笑われても無視をしたが、家門への侮辱には一歩も譲らないようになった。それが今の村上と同じ頃だったか。

久照以上に美雪がよく知って居る。

 この度の突然の話運びは、それまでの茂野なら言い出すこともないだろう突然の物言いだった。

 茂野はこの山のどこぞの名門出のおなごと見合いするかするだろうと思っていたし、自分の欲から相手に押し迫ったり、こうやって褒美としておなごを貰おうとする者ではないと思っていた。

 余計なことだと思ったが、『豊山』から松緒を茂野の嫁にするよう心づもりさせろと言われた時は心配が先立った。

 茂野は優しくまっすぐな青年である。それを分かってもらう間もなくそんな無理強いをしては心が離れるだけだ。

 功名心で茂野が道を踏み外すのならば、師である久照が一言言うのも役目である。

 だが久照は全く心の心配などしてもいない。

「動揺はあまりないご様子でしたけれども、心配はありますので、松緒様には山ノ狐を付けております」

「ご配慮感謝致します。松緒様はこの宣下、屈辱だとお思いでしょうか」

「おなごとしてですか、『葵山』側近としてのお立場を考えてですか」

「両方です──が、もっとも分かりかねるのはおなごとしてのお心内です」

「そんなご心配をされるなら」

 美雪はどこか厳しい口調になってしまったことに、茂野へ向けていた視線を手元の灯りへ戻した。

 茂野が足を止めるので、美雪も足を止めて向かい合った。

「松緒様が他山の御方であることも事情が複雑なことは分かっております。『大豊山』や『葵山』のご許可は確かに必要でしょう。ですが……」

 美雪はまた視線を躍らせると手行燈をぎゅっと握る。

「褒美でやりとりされて屈辱を感じないおなごはおりません。以前から思いを寄せておられて、本日の昼に思いを零されたまでは分かります。ならばこれから互いの思いを寄せ合っていけばよいではありませんか。それを褒美などという方法で……私は茂野様はもっと、真面目な御方だと思っておりました」

「美雪様の仰せも分かります。私はとても形式から外れた求婚をして心をないがしろにしております。ですが今『葵山』の大切な松緒様を守るためにはこの方法しか私には思いつかないのです」

「松緒様の置かれた状況はそれほど悪いのですか? 松緒様に何の咎があるというのですか。無事ここまで茂野様と共に『葵山』をお連れしたではありませんか」

 美雪にこれ以上一ノ輪の考えを伝える訳にもいかないので、茂野は口を噤み意識を切り替えた。

「不器用な門下をお許し下さい。これより松緒様のもとにお通いし必ず心を伴った嫁入りをして頂けるように尽力致します。どうか美雪様にもお力添え頂きますよう」

 茂野の言葉に美雪は立場も考えずにただ心の話だけで茂野を責めたことを恥じ、頭を垂れた。

「難しい政の中での決断もおありだったでしょうに、差し出がましいことを申しました」

「いいえよいのです。私がおなごとしてどうかと聞いたのですから、美雪様の返答は当を得ておいでです。ですが松緒様を豊山に縁ある御方にすることでかならず助命受けられるはずです」

 美雪は灯りで茂野の足元を照らし奥の間へ続く廊下へ差し掛かった。

 闇に鳴く鶯張りの廊下には、松緒の姿があった。

 当然茂野は足を止めて、こちらを黙って見ている松緒と視線を交わした。

 美雪はどうしていいか迷ったが、側の玄関口で草履を暖めていた下男を手招きし、その場から一足早く撤収した。

 ひっそりと月光が差し込み、薄い灰青の影を屋敷の中に伸ばしていく。

 松緒は瞬きすらせずに黙って闇の中立つ若獅子を見ていた。

 年は松緒のいくつも下であろう。そもそもの在り方が違う存在であるから年の話など意味はない。

 時雨を迎えにやってきたかと思えば、咲夜だけでなく兄や自分を守りたいと言って、挙げ句求婚してきた。

「あなた様というものが、私にはまだ分かりません」

 松緒の言葉に、茂野は首を緩やかに傾げてみせた。

「理解戴くためにも、生きて戴く必要がございます」

 今日はこれ以上の接触に意味はないと感じたのだろう。

 袖を揺らし袴を擦り玄関口から茂野は草履を履き、豊楽殿を出た。

 それから毎晩、茂野は三ノ輪豊楽殿へと足を運んだ。

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