黒から榛色へ
数日後、茂野は三ノ輪に降りていた。
久照の書室へ通されると、淡い蝋の明かりを揺らし向かいあう。
いつもなら差し出されるのは茶であるが、美雪が気をきかせたのか酒器が差し出された。
「『大豊山』から早耳したぞ。儂はまさかそなたが松緒様を褒美としてもらうとはおもわなんだ」
白磁の器を差し出され酒を受ける。
神酒は舌を焼く。
「学ぶものとして、多くの希有なるものを見聞きしてきたつもりだが、稲荷神を嫁にもらおうとする山ノ狐というのは初めてであるよ。そなたはやはり見込みあるおのこであったな」
酒を受けて酒器に映る久照から、視線を上げて茂野はその好奇な会話──師匠の労いを受け止めた。
「だが相手は松緒殿であるぞ。一筋縄でいくと思ってはおるまいな? 嫁に来いと言ってはいお受けしますという御方ではないぞ」
「遠慮をするようにと仰せですか? 久照様」
「まさか。脅かしてびびらせておるだけよ」
「松緒様にお話した際も、冗談はやめよと頬を焼かれました」
「それも美雪から聞いた。松緒様にも照れがあるのだろうよ。お役目大事でこれまで勧請の儀式などされたことはない。もちろん候補はおったぞ。守夏様などとはそう約束された仲であったが『葵山事変』の一件で話が白紙になったしな──要するにまだ初心なのだ」
ひけけ、と喉に絡むように久照は楽しそうに笑い酒を仰いだ。
嚥下すると喉が美酒を味わうかのように膨れた。
「茂野家は豊山開闢より山に住む名門であるが、今の当主は期待をかけていた長男が逝去して、次男も続けて死んでからはひどく落ち込んでおった。『葵山事変』での活躍、そして松緒殿との事を考えればもう十分にお前は茂野当主として立ってよいと思うが、そこはどう考えている?」
「私は葵山へ参ります。生まれ育ったこの山に別れをせねばならないともう心決めております。父上もまだ元気です。万が一の時は一門は弟が守ってくれることでしょう」
「そうか。松緒殿を娶るのは豊山の茂野一門の隆盛のためではなく、お前自身とお前の『葵山』のためなのだな」
茂野は久照が酒をあおぐ中で、居を正しゆっくりと頭を垂れた。
ゆるやかに肩までの髪が流れた。
「久照様の教えを請い参った事、恩義言葉に尽くせぬ思いです」
「うむ、お前はもう免許皆伝。これ以上は儂の元で学ぶこともない。ひとつの立派な魂の形だ」
久照の大きな手はいつもは髪を乱すようにして撫でたが、今日は肩に置かれた。
「まこと松緒殿を娶り『葵山』侍従となれるかはまだ分からないがまぁ、天才の名をもってすればそれは叶うだろう。『大豊山』も期待されている」
畳の上で寂しく艶めいていた酒器をそれそれと久照が差し出し、茂野は再び酒器を神酒で満たす。
「お前は儂の自慢の弟子であるからな、茂野。それは変わらぬからな」
「久照様、酒は少し控えた方が」
「美雪が告げ口したか。いやなに、これはな、酒に薬草を落としたものであるから、薬よ。酒ではない。くすり、じゃ」
遠慮無しに注ぎ続ける久照に、茂野は今日ばかりは拒まずに酒を受けた。
「そういえば、久照様より任されました『紅葉山』の山ノ狐でございますが」
「あ? あぁ村上な」
「あれを修行させる件、私が山を離れるまでの間、たしかに引き受けさせて頂きます」
「そうか。あれは恐らく伸びるぞ」
「私もそう思います。あの不真面目な所、気を抜いている様はどこか久照様に良く似ておりますゆえ」
「儂は不真面目ではないぞ、あのような子狐と同列にするでないわ」
「では美雪様に、二ノ輪で織物を手習う千凛なるおなごの事をお話してもよろしいのですね」
「あー……あれは、だな……『大江山』と遊山して足を休めている時に流れでの」
茂野が黙って酒に唇を浸すので、久照は干した大根の切れを噛むのをやめて目を細めた。
「このくそ真面目めが、告げ口などしたら許しておかんぞ茂野」
「もう脅かしや威嚇は通用いたしません。美雪殿に夕飯を抜かれなきように日々の行いはどうぞ真面目に、健やかにお暮らし頂けますように」
久照はにやりとほうれい線を深めて笑い、美味しそうに酒を喉へ流し込んだ。




