赤から青へ
「時雨を成すまで、『紅葉山』のお通いがありました」
それは、真だ。
時雨が産まれるまで、毎晩『紅葉山』は奥の院の座敷へ足げく通ってくれた。
ひとの子の血を引くものを産み落とすのは、稲荷神を授かるのとは勝手が違うだろうからと常に気を配ってくれていた。
時雨を産み落とす苦しみに浮かべた脂汗を、その手で何度も拭ってくれた。
「妾が許して欲しいとお願いしても、ご意志を変えることはありませんでした。妾の意志はそこにはありません」
産みたくない。
一緒に死んでしまいたいと言っても、それはならんと言って『紅葉山』ははね除けた。
父である『みかど』を飲み込み、腹の中の子──時雨の頼りは咲夜たったひとりであるのに
その母がそれを望まないとはなんという不憫なことかと、『紅葉山』は咲夜を叱った。
「そなたには、聞こえないのか」
『紅葉山』はそっと咲夜の腹に手を乗せて、まだ小さなその命に近づいた。
「まだ形も定かではないのに、この子は懸命に生きたいと願っているではないか」
『紅葉山』の眼差しは、どれだけ先を見ていたのかは分からない。
だが、咲夜には今を見て居るようには思わなかった。
「『みかど』の残したこの命を守ることが、稲荷神としての役目であるとそう思え」
大事なひとを飲み込んで得た時雨を手放しては、何の意味がない。
それは分かってはいた。
分かっていても心の弱い咲夜には重すぎた。
今でもその重さに心が耐えることはできずに、震えて仕方がない。
『紅葉山』に手を引かれていたから、ここまでやってこれた。
それがもう、ない。
暖かみを感じることがもうできない距離となって、咲夜は『紅葉山』をどれだけ頼りにしていたのかを理解した。
咲夜の閉じた瞳から涙が溢れ止まらない。
その涙は咲夜の心の内を知らないものが見れば、その身に受けた屈辱の重さを思わせた。
「もう充分でございましょう『大豊山』! 常に咲夜様の御心は『大豊山』にございました。咲夜様をお恨みになるのならば、『大紅葉山』をお恨み下さい!」
松緒もその涙の意味を確固たるものにしようと、必死だった。
「全てが『大紅葉山』の暴挙でございます。咲夜様には……何の罪もございません」
口を挟むなと命じたつもりだったが、『豊山』は特に制することなく視線は咲夜へ下ろしたままで止まっていた。
咲夜は、その視線を受けて、両手を重ね、褥の上で頭を垂れて畳みに額を押しつけた。
「未熟でした。妾はまことに……浅はかで無知で、未熟でした……己を恥じます。お兄様どうかお許し下さい」
未熟とはいえ、咲夜も己の真のために今日までやってきた。
ひとの子『みかど』の子を孕んだのも、『みかど』が咲夜を求めたからだ。
ひとの子の望みを叶えるための存在である咲夜に、それを拒絶する理由はない。
お互いに心通わせて、顔を見るだけで笑顔がほころぶ間柄だったのだから咲夜自身の望みでもあったのだ。
だが、『みかど』はひとの子。咲夜は稲荷の子。
生きる領分が違った。
その時の咲夜は知らなかった。
ひとの子は神の子と共に生きることはできないということ。
同じ方向を見て歩くことができるだけで、視線を絡め、手を取って歩くことはできないのだ。
『紅葉山』は松緒と語ったことがある。
咲夜の相手が『みかど』でなければ『みかど』の相手が咲夜でなければ──。
しかし、そう言ったあとに『紅葉山』は御山を背景にして自嘲して続けた。
「だがそう思う同士だからこそ、誰よりも強く結びつき、恋い焦がれて止まない間柄となったのだろうな」
松緒は静かに頷くしかなかった。
「咲夜は無知であった。ひとの子との境界を知らなかった。だが稲荷としての責務を外れた行いをした訳ではない。咲夜は──いや『葵山』は、『みかど』の願いを叶えたのだ。それだけは真である」
月見酒を相伴しながら『紅葉山』は松緒へ続ける。
「松緒、そなたの姫は異端ではないぞ。己の役目を全うしようとした。だから咲夜をあまり責めてはくれるな。ただあるようにあった。その結果は、時の流れと共に消化していく他にはない。そう思い側についてやってくれ」
松緒とて、咲夜を責めるつもりはなかった。
むしろ咲夜の過ちを未然に防ぐことができなかった己自身を責めた。
『紅葉山』はその松緒を許し、これからの咲夜を託したのだ。
「そなたが咲夜を殺して私も死ぬなどという、阿呆でなくて良かった」
あの時に『紅葉山』から直接注がれた酒の味を、松緒は今も舌の裏が痺れるような感覚で覚えている。
この痺れが取れる日は来るか分からない。
いや、死ぬまで忘れようとは思えない。
自分が生あるうち内は『紅葉山』に足を向けて寝ることだけはできないとそう思うのだ。