青から金へ
それだけは直したい咲夜に茂野は横から「母上ですよ」と声をかけた。
難しく長く話をするのがよくないのです、と茂野は断ってもう一度「こちらは母上です」と続けた。
咲夜も兄弟の多い茂野の言う事ならばと、助言に添って「母上です」と何度か時雨の目を見て訴えた。
玩具を与えて何度も言い続けると、時雨は腹に玩具を乗せたままで首を傾げたと思うと
「ははうえ」
と咲夜のことを呼んでみせた。
たったそれだけのことなのに、咲夜には今まで以上に強い自覚が生まれた。
自分は時雨を守らなければならない母なのだということ。
「賢いですね時雨。母上も強く賢くならねばなりませんね」
結うどころかまだ揃えることができない柔らかな赤子の髪を撫でる。
愛おしい思いは、心の底から滾々と溢れて止まらない。
美しい黒檀の髪は身を焦がし愛した『みかど』を思い出す。忘れてしまわなければと何度も思い、それも叶わず夢を見続けた。休んでも心休まらず跳ね起きる日々。
後悔の渦と、嘆きと哀しみと、迷いの中で手を取りひたすら未来へと共に走り抜けた『紅葉山』の姿。
時雨は咲夜の全てだと、改めて思う。己の人生の縮図だ。
親子の交流は暫くして支倉の一言で中断した。
「『大豊山』のお成りです」
茂野は座敷から支倉と同じ廊下まで下りるつもりだったが、それを咲夜が遮って座敷へ留めた。
廊下を遠慮なく歩進める足音。──ふたつ。
一緒なのは守夏だろう。
障子を開き座敷に上がる『豊山』を咲夜は下座から頭を垂れて迎えた。
払っていた打掛を茂野にかけてもらったが、簪は置いたままだ。
『豊山』はそれに気づいてか自らが贈った簪を一瞥してから上座についた。
時雨はまた珍しく見たこともないものが来たという目で、大きな目を輝かせて『豊山』を見ていた。
だが守夏が座敷に上がった途端、何を思ったのかわっと泣き出した。
「どうした、守夏が怖いのか?」
「まぁどうしたのでしょう、時雨、泣き止んでおくれ時雨」
咲夜が慌てて抱き背を撫でる。
茂野には時雨が泣く理由が何となくだか推測がつく。今でこそ『豊山一ノ輪麓』である守夏だがその魂の色形まで全てが先代『豊山一ノ輪麓』になった訳ではない。守夏の所作、拭いきれぬ紅葉山の気配が、時雨を怯えさせるのだろう。
「猛将に恐れを成したのでしょう、まだこれほど幼いのです」
茂野は時雨を預かり廊下で泣き止ませようとしたが、咲夜は手放したくはないようだ。
荒ぶる野分が大地に叩きつける豪雨のように、声を張り上げて時雨が泣くのは茂野の推察の通りである。
時雨がこの世に具現化し、他者から向けられた負の強い感情は守夏からあてられたものだった。原始的でもっとも恐怖を覚える感情。己の命を脅かす強い憎悪。
──殺意。
嘘偽りもなく叩きつけられた思いは、年月を経てもまだ時雨の中に残っていた。
「せっかく『豊山』のお兄様がご臨席下さったのですよ。ねぇ時雨、泣き止んでおくれ」
死にたくない──
同じ欲求を時雨は『葵山事変』で放った。
その強い強い思いは、紅葉山中を包んだ。
互いの命を押しのけ、敵とするものと対峙していたものは、同じ気持ちを持って臨み時雨の願いに同調した。願いに応え命の限り全力を発揮『させられた』のだ。三朱『紅葉山』の理性を失った凶刃が、ありとあらゆるものをなぎ倒した。
その願いを放った記憶は、時雨にはない。
今はただ条件反射のように守夏の気配に怯え泣いているだけで生命の危機の警告を放つことはなかったので『豊山』が我を忘れ、守夏を排除するようなことはない。
そもそも『豊山』は時雨に同調するつもりはないし、小さな時雨の力をはね除けているのだろう。




