黒から榛色へ
障子に美雪が手をかけると同時に茂野は勢いよく声を上げた。
「松緒様、私の嫁に来て頂けませんか」
美雪は思わず障子を開く手を止めた。
止まってしまったのは松緒も同じだった。
村上も突然の茂野の言葉に瞬きだけした。自由に手足を躍らせているのは、時雨だけだった。
「は……?」
「私は妻を護ります。道徳に反することではないはずです」
「え、あの」
「そうなれば御二方も私の義兄となります。尊厳を守るために働くことに不義はないはずです」
茂野は青い目をこれ以上もなく輝かせると、互いを明確に分けていた畳縁を越えて近づいた。
「茂野様、松緒様あの……」
美雪がおそるおそる声をかける。美雪の存在に慌てたのは、松緒の方だった。
すぐ目の前まで近づいていた茂野の頬を平手で打って立ち上がる。
「と、豊山流の冗談には慣れずに困ります。では私はこれで下がります」
松緒はさっと袖を振り廊下を渡って行ってしまった。
思い切り平手打ちされて茂野は後を追うことも言葉を発することもできなかったが、美雪の前でいつまでもぽかんとしてはいられない。
「あの、今のはご冗談で?」
美雪がおそるおそる聞いてくるので、茂野は首を横へ振った。
「いえ。私は冗談が言えません」
「そ、そう、でございますよね。いえ、その驚きました」
「あのような振る舞い、品がないとお思いでしょう」
「正統な手段を踏んでいるとは到底思えませんが、乾坤一擲の思いは通じたのではないかと。ですが茂野様、松緒様は……」
「分かっております。いくら従者身分といえど稲荷神の格式を持つ御方です。分かっておりますが他に方法はありますか?」
茂野の言う方法と美雪の思う方法は、目的が違った。美雪は当然茂野が松緒と顔を合わせるための方法と受け取った。
「時雨様を仲人にするのは良いとは思えませんが、たしかにお近づきになれる方法は他にはございませんね」
だが茂野の目的は違う。
松緒や元侍従たちを救うための足がかり。
真に近づくための方法が、あの時あの瞬間茂野にはそれしか浮かばなかった。
冗談だと思われては困る。茂野はすぐに行動を移そうと心に決めた。
「支度が調ったのであれば長居はいたしません。これで失礼致します」
茂野は時雨を抱き上げると立ち上がり歩を進める。立ち止まったかと思うと、部屋にぽかんとしたまま座っている村上へ視線をやった。
「何をやっているのかお前は。時雨様をお連れして一ノ輪へ戻るぞ」
村上は茂野の突然の求婚に頭が全くついていかなかった。
一ノ輪まであがり奥の院へ向かう途中茂野家に止め置かれ、その背を見送りそこでやっと茂野が何を言ったのかを理解できた。
「茂野様、松緒様を嫁に迎えようとされているのか」
隣で茂野を見送ったお美津がそのぼやきを聞き逃す訳がなかった。
身をかがめて村上の腕を掴むと鬼の形相で問いただしてきた。
「松緒様? 三ノ輪の豊楽殿におられる縉紳の方?」
「あ、いえ、今のは独り言でございます」
「はっきりおっしゃい! 何の為の弟子なの」
がくがくと視界を乱される。
「たしか『葵山』の御方よね。そんな身分の高い方を嫁に貰おうとされているの? いえ、もしかして婿に出ることになるかもしれないということ? きゃーそれは大事よ」
無理がある話なのでは、と村上が言おうとするがお美津は村上の反応などもう視界には入れていない。
「総領たる御方が外に出るかもしれないなんて、そんな」
分かりやすく傷ついた顔のお美津は袖で目頭を押さえて台所の方へと駆けて行ってしまう。
村上はもしかしたらこの話は色々と吹聴して『そういうこと』にしてしまった方が茂野にも有利なのではないかと村上は思った。
これは噂好きの女中が集まる台所には行かねばならない。
決して、話賃代わりに夕餉を頂戴したいからではない。




