黒から榛色へ
村上は驚いて跳ねた時雨を支えて手の平を見たが、静電気でも走らせただけなのか傷はない。
「お分かりになりましたか。これは玩具ではありません。茂野の命を繋ぐ大事な武器でございます。あなた様が稲荷神であらされるのであれば、属下の命を守る術を弄んではなりません。いかに幼くとも、道理分からずとも、あなたは誇り高くあらねばなりません」
意味を理解できない赤子には、痛みをもって訴えるしかない。
時雨は泣くだろうと思ったが、何も言わなかった。
茂野は真剣な顔で時雨から目を離さない。松緒も何も言わずに茂野を見つめていた。
「茂野様、あの……」
代わりに村上が何か言おうとしたが、抱き留めていた村上の手から這って時雨は茂野の膝まで寄ってきた。
大小はあれど傷つけてきた茂野に対して怯える様子をみせないのは驚きだった。
ただ寄ってきただけでなく、詫びの気持ちがあるのは不思議と気配で理解できた。
「遊びならば、もっと別の遊びをいたしましょう」
茂野はやっとそこで張り詰めた態度を崩し、時雨を両手で抱き上げた。
高く持ち上げられたその時こそは泣きそうな顔をしてみせたが、すぐに時雨は笑顔になった。
「しげのー」
「おや、名前覚えられましたね。しかも正確にですか。一体いつ私の名前をきちんと読んで頂けるのですか時雨様」
村上が唇を尖らせる一方で茂野が膝から時雨を下ろす。
時雨はまた高い高いをして欲しいと思ってか袴にかじり付いて離れない。
ならば自分がと、村上は持ち上げようとしたが時雨が重すぎて揃ってころんと座敷に転がってしまった。
それはそれでゆりかごのようで楽しかったのか、時雨はまた無邪気に笑ってみせた。
ほとばしる笑顔が、なんとも心を癒してくれる。
「不思議な御方なのですよ」
美雪は茶を淹れ配膳しながら、茂野に話だした。
「まだ言葉を正確には放たれませんが、笑顔や仕草で求めてくるものが伝わるのです。喜んでおられるのだな、もっと何かして差し上げたいと、願いを叶えて差し上げたくなるのです」
「まだこのように幼いからでしょうか、ひどく心奪われる愛らしさがございますね」
茂野の言葉に、美雪は深く頷いた。
時雨は三ノ輪で十分な愛情を注がれ育てられていることが分かる笑顔だった。
「『葵山』も同じように心癒されるに違いありません。この状態ではまだ分社もなりません。分社前に何度かお母上たる『葵山』の側に置き、英気を養って頂かなくては。本当は生まれた山での養育が一番でしょうが……」
美雪はそこまで言って失言だと感じたのか、慌てて立ち上がった。
「支度をして参りますね。少々お待ちを」
しんとした空間で、ゆっくりと松緒は口を開いた。
「茂野様はご兄弟がおありか」
「はい。私は茂野一門当主の三番目の子でありました。長子二人はすでに亡く、下には弟が八、妹が三、母上の腹に今妹が居座っております」
「私も妹です。よい兄と悪い兄を見極める目は優れているつもりです」
さて茂野はどちらと見られたのか、村上は双方を見たが明確な言葉は放たれない。榛色の目を遠くへ投げた。
「私はお兄様たちの願いと誇りを、妹として守りたい──ですが、お兄様方のおられる総本山へ趣く口上など私には思いつきません」
村上はその言葉の端に茂野への歩み寄りを感じた。どうやら松緒を覆っていた先入観は少しは取り除けたようだ。
「そればかりか私はここ三ノ輪に置かれた身です。咲夜様や時雨様のお立場を悪くすることだけは避けなければなりません。咲夜様のためなら、死を覚悟しております」
それはひどく淡々とした、他人事を語るような口ぶりだった。
「いえ、いいえ松緒様。私は貴方を生かします」
複数の足音が耳を擦る。
美雪が支度をして廊下を侍女たちと渡ってくる足音だ。
美雪がやってくれば、ここに長居する意味はなくなり松緒と話すことができなくなってしまう。
「私にはあなたのお力が必要です。死のお覚悟があるならば、そのお覚悟で──」




