黒から榛色へ
「私は『葵山』のご判断を信じたい」
「なぜです」
「真に『葵山』の信頼を得たいと思うからです」
茂野は強く心に決めた言葉を改めて松緒へ向けた。
「この身が塵に化すその時まで、あの方をお守りしたいと願うからです。それが侍従としてでなく、ただの山ノ狐として散るさだめであったとしても」
「あなた様は『豊山』の山ノ狐です、それを捨てまでする意味はあるのですか」
「確かに私は身も心も『大豊山』の育ちでございます。『葵山』とは縁も縁もありません。信じて頂くためには身を持って示す他ありません」
こん、と鹿威しが合いの手を入れて、場は恐ろしいほどまでの静寂が支配する。
静寂に包まれた座敷で、松緒は一度深呼吸をする。その深呼吸を待っていたかのように障子に影が落ちた。
「美雪でございます。時雨様をお連れいたしました」
小さく障子を押し開くと、なめらかな黒檀の髪が揺らめいた。
「きゃむ」
ぺたりと両手を座敷につけて這ってきたのは、まだ歯も揃わぬ時雨だった。
美雪が障子を閉める間に足を這わせてずいずいと座敷を横断すると、まっすぐ目がけて行ったのは下座の村上の元だった。
「きゃむ、きゃむ」
何度もそう発声すると、小さな手で村上の膝を何度も叩いては笑ってみせる。張り詰めた空気が解けてゆく。
「時雨様、村上でございます。む、ら、か、み、です。どうしてそのような呼び方をするのですか。いたた、痛ぅございます」
村上は何度もそう正すのだが、まだ時雨は村上と発音ができないらしい。
また「きゃむ」とだけ言って村上の着物の袖を強く引いて上げ下げに忙しい。
「季節を一つ二つ巡らせたのに、このようにまだ、分社したてのような幼さなのでございますか」
茂野の驚きは当然のことだった。稲荷神は人とは成長の速度が違う。育つ山の恩恵を受けてすぐに言葉も知識も吸い上げる。三つ四つ季節が巡れば、ひとの子の十五ほどの年に相当する成長をみせる。
それにここは天下の『豊山』の膝元であり、恩恵満ちあふれるほどである。
それでもこの幼さ未熟さは異常、最弱とさえ思えた。
山ノ狐と肉体的な完成度は並ぶか、その下とも推測できる。
「お分かりでございましょう。真を交わさずに無理に勧請して分社を成しても、このようにか弱い個体として育つことになるのです」
松緒の言葉に、茂野は絶句以外なかった。
仮にも三朱たる『紅葉山』と『葵山』という、これ以上もない力の掛け合わせで生まれた分社のはずが、最弱というこの結果。
『豊山』は直接関与はせずとも、時雨の状態報告は守夏から受けているだろう。
この状況を知れば勧請の儀式を強引に運ぶ気にならないのは、当然のことだ。
だが松緒自身も真の事は分からないが、茂野への言葉は方便だった。
おそらくはひとの子の血が、時雨の成長に影響を及ぼしているのだろう。
「時雨様、ご無沙汰しております」
茂野は村上を遊び道具にする時雨に声をかけた。
この幼さでは茂野を知らぬ若者として退けることも考えられたが、時雨は自分の名前がそれであることは認識しているのか、村上で遊ぶ手を止めて茂野へ視線をやった。
茂野と同じ青い目。空よりも海よりも深い光彩が海中をほとばしる泡のように美しい輪郭を描いている。
なんと魅力ある目であろうかと、茂野は続ける言葉を失ってしまった。
「時雨様、こちらはお母上『葵山』従者、神楽殿守の茂野様です」
村上が取り持ってくれたおかげか、時雨はいたずらの矛先を村上から茂野へ変えた。
這って茂野の膝に寄りつくと、珍しいのか左手に巻き付けた陰陽術の籠手を弄りだした。
この手癖の悪さによって村上と出会ったのだな、と茂野は視線を村上へ投げた。
村上は救援を求められたのと勘違いしたのか「手癖の悪さは直っておりません」と声を抑えて説明するがそんなことは見れば分かる。兄弟の多い茂野は、赤子の扱いには慣れていた。
「時雨様、これは玩具ではありません。これは玩具ではないのです」
当然口で説明しても、時雨には手を止める理由はない。美しい染糸に潜らせた玉の輪を引いて抜こうと忙しい。
数秒様子見で黙っていたが、茂野は自らの武器たる『陰陽術』の籠手に触れる時雨の手を押さえた。
押さえつけられると淡く玉が発光し、時雨は跳ね上がるようにして手を引く。
「茂野様、何を!」




