黒から榛色へ
「失礼ながら『葵山』は全てを同時にお考えになり、自ら選べぬ二つのものに挟まれて苦しまれるところがおありになります」
「そ、それは……」
「私のことは、私が考えます。いかにして貴方様から信頼を頂けるか、今後どのように生きるかは、私が悩むことで貴方様が悩むことではありません。それは侍従方のこともそうです。私は元『葵山』侍従の御二方にお会いしたことはありませんが、侍従位を持つ方々が『葵山』の指図なしでは生きられぬとは思いません」
茂野は咲夜の手が添えられた拳を、ぎゅっと握り締めた。
「貴方を愛するものたちの決意を信じ受け入れては下さいませんか。稲荷神であらされる以上に貴方様は貴方様の気持ちを大事になさって下さい。ご自分を許してあげて下さい」
咲夜が固まってしまったので、茂野は顔色を伺い下がろうとも思ったが、ここで下がっては意味がない。
意を決して自らの手の甲に置かれた咲夜の手の上に、自分の手を重ねた。
逃げずに手を握り締めて、茂野は強く唇を噛んだ。
そしてもう一度、静かな書院の静寂に合わせてゆっくりと続けた。
「私は貴方様を愛しております」
己の手で挟み込んだ、白く華奢な咲夜の手は一度だけ小さく痙攣した。
その痙攣が、驚きか拒絶か不安かは、視線を交換していても分からない。
まだ茂野と咲夜には海よりも深い溝があるだが差し込む柔らかな陽光は、溝の底を照らし穏やかささえ感じさせる。
「茂野一門の子としてではなく、『大豊山』の恩恵ある山の者としてではなく、ただの私として、貴方様を愛しております」
茂野の言葉を、咲夜は「冗談はおやめなさい」と退けることはできた。
だがそれをできないのは、彼が真剣に思い嘘偽りなく自分を思っていることが分かっていたからだ。
豊山に住み咲夜に触れ合うものたちが、すべて守夏のように冷徹な眼差しを投げてくるのであれば咲夜は報われたと思う。
こんな自分に一生懸命になってくれるものがいなければ、苦しむことも、感じてはいけない喜びすらも、得ることはなかったのだ。
願いを叶える力などないのに、咲夜を信じ愛する存在に心を痛める。
突き放さなければならない。そうなければいけない事が、咲夜の苦しみだった。
「私の事をお気に召しませんか」
「違います。何度も言いますが決してそなたが悪いのではなく妾が」
「ならばどうかこのまま」
その言葉を受けて咲夜は首を横に振り、茂野の衿を白い手が掴み震えた。
「このまま」
衿に添えられた手は自分を突き放そうとして掴んだものだと茂野は分かっていたが、震えてそれができないのは、咲夜の弱さだというのも分かる。
突き放せば茂野が傷つくとそう思っているのだろう。
自分のことだけを考えていいと言った傍から、この姫君はそれができない。お互いの青い目が見つめ合うと、他には何も映らない。
「貴方様自身が悪いのだとして」
茂野はそっと両手で包んだ手を持ち上げて咲夜の膝に戻すと、膝小僧で畳の目を踏むようにして腰を少し浮かせた。
そうするとまだ若い茂野でも、咲夜と視線の高さを合わせ真っ直ぐ向かい合うことができた。
「その悪い貴方様をも受け入れたいのです。信頼とは、侍従を目指すとはそのような覚悟だと考えております」
茂野が動いたので、思わず咲夜は抱きしめられる──と思った。
が、茂野は立ち上がり部屋を出て時雨を迎えに出てしまった。
ぽかんとして、それから咲夜は額に手をあててため息と共に「なんて弱い──弱い妾」ともう届かない兄へ泣き言を零した。
今、咲夜は完全に茂野に心を惹かれていた。




