黒から榛色へ
「時雨に会えるのですか」
「はい。四季を巡り巡って一度も顔合わせされていないのは、同じ山におりながら不憫ではないかと」
「『豊山』のお兄様や守夏も良いと言って下さったのですか」
「臨席するとは仰せでした。『葵山』がよろしければすぐにでも三ノ輪へ迎えに参ります」
咲夜は書物をそそくさと閉じ、書見台を横へ寄せて、膝ひとつでは足りず二つすり寄せて茂野へ寄った。
当然のこと茂野は仰け反って膝を刷り後方へ下がろうとしたが、咲夜はそれを手を伸ばして止めた。
「ありがとう茂野」
咲夜があまりに真っ直ぐ茂野に向かって微笑むので硬直してしまう。言葉を繋げることができず、唇だけが痙攣して震えている。
「そなたの言う通り時雨は不憫です。だからこそ周囲が正しく導いてやらねばなりません。妾が見捨てることだけは、絶対にできぬのです」
「分かります。『葵山』はそのようにお思いだと、私も思っておりました」
「茂野は時雨をどう思いますか」
「あなた様が大事に思っているものを、私は信じております。ご安心を」
茂野の腕を掴んでいた咲夜は膝をつけあう距離で、また不思議な沈黙に支配された。
お前を侍従にすることはできないという詫びなのか、そもそもなぜ自分が茂野にそんなことを聞いたのかと自分が分からないという風でもあった。
茂野は話を変えようとしたが、もう一度伸びた咲夜の手が今度はしっかりと茂野の手の甲に添えられた。
「茂野」
「は──はい」
「妾はそなたが思うようなものではないのです。期待をしてもお前が苦しむだけです、そして妾も悲しくなる」
「『葵山』が悲しく──で、ございますか?」
茂野が呆けて返した言葉は、咲夜には答えにくい事だったのだろう。
少しだけ溜めを経てから白銀の髪を垂らし、紫陽花の簪を揺らして唇を開いた。
「苛まれるのです」
「私が何か、ご迷惑を?」
「妾はそなたの願いから目をそむけています。それなのに妾のことを気遣ってくれる姿が、妾には辛い」
「それは当然です」
「ここ豊山ではそれがそなたの仕事だと妾は知っています。でも」
「役目でなくとも」
茂野はそれ以上を今勢いで放つことはできないと、つい喉の奥で留めてしまった。
咲夜はその間に割り込むように続けた。
「優しくなどしなくてもいいのです。そなたの思いを叶えられないのですから、守夏のように冷ややかに見下しても構わないのです。妾は事実がどうあれ最初に嫁入りすべきそなたの主の元へ、参じることができなかった愚か者です」
「私はそのように思ったことはありません」
「そなたは強い。だが妾は弱い。ここまで尽くし側にいてくれた櫻花や吉水を思いながら、こうしてそなたの配慮に心から感謝し、そなたのことを信頼しつつある」
それでいいではありませんか。何がいけないのですか。
茂野が自分のことだけを考えるなら、そう言い切れた。
だが咲夜の言い分も分かる。
侍従を置かないと咲夜が明言したのは、自分の騒動のために侍従位を返上し処断されようとしている侍従らのために違いないのだから。
「私は、侍従方には及ばずとも少しでも『葵山』に信頼を得られることを、嬉しく思っております」
「でも」
「嘘は申し上げられません。もちろん茂野一門のことを考えれば侍従位という明確な官位を得ることが一番重要なのだろうと思います」
「そうです。──そなたの今後が関わっていることです」
「ですが私のことなど、どうでもいいではありませんか」
自身のことなのにあまりに投げやりの表現に思わず咲夜は身を仰け反った。
そんなことをいう従者ではないと思っていた。




