無色から榛色へ
花弄じ 衣に匂い 満つたびに 常恋すれど 散らまくさがに
木の根を引き上げて、鋭く磨いた石の先で千切る。
この季節は土以上に根が強がりだ。
季節に耐えるように固くなり歯で千切ることができない。小川の水も冷たい。
村上は懸命に千切った木の根を指先を冷やしながら川で洗うと、口にくわえた。
豊山三ノ輪は、紅葉山より底冷えする。
茂野が下げ渡してくれた古着が無ければ、熱を出して麓から出て歩くこともできなかっただろう。
まだ暦は秋を示しているのに、景色は冬を呼び込んで冷たい風で横顔を打つ。
先ほどまで通り雨まで降っていたので、一層の冷えが山を包み霧を立ちこめさる。
こういった秋から冬にかけて降る雨を、時雨というらしい。
時雨──それは村上が守らなければならない赤子の名前でもある。
なぜ主はそんな名前をつけたのか。
三ノ輪の美雪に、時雨という言葉には「はらはらと散るもの」という意味があると教わった。
それは桜か紅葉か雪なのか。
空から地へ舞い降りる動作であろう。時雨が稲荷の世に撒き散らすものは何なのか……
真に込められた名前の意味は、いつか時雨自身が体現することだろう。
村上は木の根をかじりながら、風をしのげる大木を背にため息をした。
今村上は困難の中にあった。茂野に師事を仰ぐためにも、彼の役に立たねばならない。役に立つものだと思って貰わなければ、教えの真髄までを請うことは許されないだろう。
くわえた根を強く咬み、根の味と栄養を喉の奥へ押し込む。考え纏まらないままでいるとまた腹が鳴った。
もう一つの悩みとは、冬を越せるかどうかという問題だ。ひもじさのあまり、木の根を噛んでいる始末だった。
一ノ輪の茂野邸まで上がれば、何か馳走はしてくれそうなものだが「してその後、何か情報は」と聞かれて答えられないのはまずいだろう。
茂野を元『葵山』侍従達と繋げるために、何でもいいから情報を集め接触するための糸口を見つけなければならない。
だが豊山に葵山のものなどいないし、元侍従たちの居場所を知る者も、噂も立つ様子もない。
このままでは、完全なる飢え死の末、凍死の予感だった。
しかしこんな山の裾で死に絶える訳にはいかない。
村上は形式上、主様である『豊山三ノ輪麓』久照の元へ向かうことに決めた。茂野の師匠であるのだから、村上からすれば大師匠。握り飯くらいはくれるだろう。
「村上」
屋敷の裏手にある三ノ輪麓から、声がかけられた。
見回すが特に影はない。そもそもここは屋敷裏手の私的な畑だ。久照の身内に名を覚えてもらうほどの知り合いはいない。
幻聴まで聞こえる空腹度に達したかと思ったら、ひらりと白い手が揺れているのが見えた。
雪避けを仕掛けていたのか、藁の間から顔が覗いている。
「松緒様?」
そこにいたのは『葵山』侍女の松緒だった。
戸惑ったのは随分と粗末な着物であったからということと、そもそも松緒が畑にいるという噛み合わない景色が起こした混乱だった。
松緒は『葵山』侍従櫻花の妹になる。
総本山出自であり、総本山の一ノ侍従『不死見稲荷上ノ社』尾薄の子だ。
叡智、最強、高潔をそれぞれ二つ名を与えられた櫻花、守夏、浮冬の側で育ち、松緒は三柱に愛されて育った。
稲荷神の格を持ち、山を預かることもできたが、松緒は兄の在り方に従い葵山を補佐する役目についた。
とはいえそんじょ其処らの山ノ狐では、顔を合わせることもないおなごである。
当然こんな畑で土いじりをする存在でもない。だが彼女であれば『葵山』侍従たちのその後や、今いる場所を耳にしているに違いない。
冬空に煌めく一番星を見つけたとばかりに走り寄った。
藁を掴む思いで側まで寄り膝をつくと、松緒も揃って身をかがめた。




