無色から黒へ
その後『豊山』の通いがあり、茂野はその日の任を終えた。
夜燈の灯る境内を単身で進み家路へ向かう中、村上の気配を感じた。
日課となってはいるが、今日はその気配だけで苛立ちを覚える。
村上のせいで日中は恥をかいてしまった。
心から疲労していた茂野は、この夜に本気で村上を処断してしまおうかと思った。
背後を狙って襲い掛かってくるつもりかと思ったが、気配はひょいと松の木から降り立ち、暗闇の中に美しい金髪を浮かべた。
日々の攻防で傷んだ装束は、美雪が繕ってくれているらしいが限度がある。
継ぎ接ぎの着物が茂野の視界に入った。
「どうした。今日は正々堂々と正面からか」
「今日は休みの日と致します」
「なら、早々と三ノ輪へ下がれ」
顔も見たくないのだと緩慢な素振りで手を振る茂野に、村上は手を広げた。
何のつもりか分からなかったので眉間に皺を寄せる。
「お疲れのご様子。荷物をお持ちします」
村上は殊勝な言葉を吐いた。
何の作戦か分からないという訝しげな視線を受け、村上は続ける。
「今日はここへ来る途中に草履の鼻緒を切ったので調子がでないのです」
足を上げて繕ったばかりの草履を見せてわざわざ見せてきた。
なぜかその仕草に、はぁと茂野は肩を落とし、放り投げるようにして撫子柄の風呂敷を村上へ渡すと、再び歩き出した。
村上に奪われて困るものは包んでいなかったので、万が一奪われても構わない。
草木がさらさらと流れ、月光を受ける道行きを互いに無言で歩いていたが、村上が声をかけてきた。
「美雪様に伺いました。茂野様は『葵山』侍従になる為に日々勤めて居られるのだと」
「別に侍従になるためにお仕えしているのではない、あの方をお守りしたいだけだ。その結果がついて来ようと来ずとも構わない」
「山ノ狐としては大変な名誉。おこぼれ預かりたい程の快挙でございます」
「地位名誉に欲深きお前と私を同列にするな」
茂野が倦怠感を隠さずにそう言い捨てるが、村上は表情を変えずに茂野の後ろを追い続けた。
「どのように罵られても、何もかも無くして空っぽになってしまうよりは、ずっと良いかと」
村上が言っているのは守夏のことだが、茂野には『紅葉山』を捨てた三ノ輪の山の狐達のことだと捉えた。
「たしかにお前のその執念だけは称賛に値する」
「初めて褒めて頂けました」
「貶したのだ」
虫の音だけが周囲に満ちていて、草履が山の土を踏んでいく。
山の狐たちのすみかが淡い橙に灯っているのが見える。
「ではここで。明日また」
村上が茂野へ風呂敷を渡そうとすると、茂野はそれを遮った。
「夕餉は取ったか?」
村上は首を横へ振った。
食事をのんびりと取る暇があるのなら、茂野の寝首を掻く方法を考える方が有益だった。
「用意があるかは女中に聞かねば分からないが、上がっていけ」
「はぁ」
村上は茂野の計らいに、どう答えていいか分からずに間の抜けた声を出した。
「それにそのようにすり切れた着物で山を出歩くものではない。ここをどこだと思っている。三朱『大豊山』の膝元であるぞ。小汚い身なりで跋扈していい場所ではない」
髪にも櫛を通せと上から下まで文句をつけられて、村上は初めて嫌な顔をしてみせた。
そもそも茂野とは暮らし向きが違うのである。
同じような装いをするなど到底無理だし、そのようなものを求められ答える関係ではない。
「私の古着をやる。三ノ輪麓の仲間達にもいくつか分けてやるといい」
背を向ける茂野の下げ髪が揺れる。
とりあえず茂野家に上がることが許されたことだけは理解した。
「お心遣い大変ありがたく存じます。分け与える広い心は持ち合わせておりませんので、何着お譲り頂いても全て私が使わせて頂きます」
「意地汚い。全く『紅葉山』出自というのはとんだ田舎者だな……」
茂野は迎えに出てきた女中や妹たちに声をかけてから、村上を伴って部屋へと向かっていった。
膳を用意されて食事を囲む。
村上からすればまるで主人が口にするような、立派な食膳であった。




