無色から黒へ
「春一番を告げる風です──『葵山』の侍従はそれをいつも一番に感じ取っていました」
咲夜はそこまで告げると、撫でる手を引いて、そっと膝に揃えた。
かつての侍従であった櫻花と吉水を想っているに違いない。
「櫻花とは総本山にいた頃からの付き合いでした。優れた詩人で……分社前、熱を出し伏せている時は外の木蓮に詩を結び、毎日見舞いをしてくれました。妾は枝に結ばれている様を見るだけで、苦しみなど消え熱が下がる思いでした」
自分に話しかけているのか分からなかったので、茂野は答えずにただ青い目を伏せて耳だけ澄ました。
「吉水は地位や名誉に関心がない、明るい侍従でした。真を見抜く純粋な目の持ち主で……そなたの上にある久照とどこか似ていますね」
そこまで来て、茂野は自分に話しかけられているのだと判断し、短く「はい」と答えた。
「櫻花と比べてどこかおなごに不真面目なところはありましたが、ふふ」
咲夜は何を思いだしたのか、袖で口元を隠して笑った。
「吉水は私のこと昔、総本山の侍従の娘と間違えて、嫁にすると騒いだことがあったのですよ。私が咲夜だと知って慌てたあの顔、忘れられません」
それぞれ縁があって、咲夜との繋がりがあって、望んで侍従に据えた。
「気負いすぎる妾に力を抜いて自分らしくやればいいと、支えてくれた──侍従達でした、あれほどまでに成熟し心広く穏やかな侍従は稲荷弟妹多くとも、あの二柱他にはおらぬでしょう」
曖昧な笑顔を浮かべていたが咲夜の顔がそこで引き締まった。
「侍従を生かすも殺すも全て主の采配一つです。妾は自らの過ちで大事な侍従を失おうとしています」
「『葵山』の責任ではありません。侍従としての役目を遂行できなかったことは、『葵山』侍従の御二方も総本山で深く後悔されているに違いありません」
「茂野は、私の侍従たちが許されると思いますか」
「……」
茂野は答えられなかった。
茂野には許す・許さないという思考はなかった。
それを行うのは主たる稲荷神たちである。
咲夜は茂野が考えもしない選択肢を、こうしてたまに問いかけてくる。
不思議な姫君だと思う。
従者にいくら問いかけて、答えを返してもらったとして、それが何に影響することなどないのに。
「『豊山』のお兄様のお怒りは深いものです。許されることはないでしょう。妾は生きながら愛する侍従を失うのです。それを嘆く権利はもちろんありません。浮冬や守夏のことを思えば、相応の罰なのでしょう」
咲夜は、茂野の視線を受けながら続けた。
「茂野。妾には侍従を持つ資格がないのです。また侍従を持ってそれを失うことになったら、心を保つことができません。妾は二度も三度もこのような思いをしたくない。妾は弱く、誰の期待にも応える事ができない。ひとの子の願いを叶えることも、もうできないのではないかと不安でなりません」
「──『葵山』をお守りするには、私の力は不足でしょうか」
茂野は、はじめて問いかけをした。
それが許されることでないことは分かっていたが、咲夜が望んでいる気がしたのだ。
「……茂野の問題ではないのです。お兄様には私から、やはり侍従は持てぬと伝えます。役目を終わらせることになりますが決してそなたらの不始末ではないことを覚えていて」
「私は『紅葉山』で、僭越ながら『葵山』を抱いてあの山を降りました」
「そなたの働きを、認めていないわけではないのですよ」
「違います、どうかお聞き届け下さい」
茂野は、咲夜の言葉を遮った。
なぜかここで、茂野は胸に抱いた思いを示さなければならない気がした。
「あの時、『葵山』は涙を落とされておりました。私は、その涙を見て……貴方様を守らねばならないと思いました。二度と涙を落とすことのないように、お守りしたいと思ったのです。『葵山』はもう何も失われることはありません。私は貴方様がもう何も失わないために、貴方様にあてがわれたのです」
「茂野」
「私自身もまた、望みの限り生きながらえてみせます。お約束致します。私は絶対に貴方様のお力になります」
咲夜はその手を取って握り締めた。
「茂野。私は……」
「分かっております」
茂野は首を横へ振った。
「『葵山』にとって侍従の御二方がどれだけの存在であるかは、存じ上げております。それがたっての願いであるならば、私はそれを叶える力になりたいのです。それがまことの侍従の器でございます」
咲夜は黙り込んでしまった。
障子から差し込んでくる陽光は優しかったが、この場の誰の心を暖めてはくれはしない。
静かに添えていた手が、再び咲夜の膝の上に戻った。




