無色から黒へ
それから、茂野は村上にしつこく後を追われることになる。
三ノ輪麓預かりの村上が、一ノ輪に居を構える茂野の後を追うということは並大抵のことではない。
一歩間違えれば離反と見なされる処ではあったが、久照は許しを与えていたし、見て見ぬ振りをしていた。
村上に一手取られたら、黙って陰陽術を教えるようにと久照から言われたが、茂野からすればいい迷惑であった。
さすがに一ノ輪の本殿や奥の院まで侵入して背後を狙ってくることはなかったが、本殿から出れば隙をみれば襲いかかってくる。
時には罠を張ってきたし、茂野家の門前で座したまま三日四日動かぬこともあった。
何度も踏みつけて蹴り転がしてやった。
恐らく村上は茂野の草履の大きさを覚えたに違いない。
茂野としては、このしつこい子狐を多忙の久照のところや、間違っても『豊山』や『葵山』へ向かわせるわけにはいかなかったので、もうつきまとうなと突き放す訳にも行かない。
それに──必死になって食いついてくる姿を見て不憫だとも思う。
まだ髪も結えない青さの抜けぬ年頃。
慣れた『紅葉山』を出て、一から生き抜いていかねばならないのだ。
褒美目当てであることを激しく侮蔑したが、村上の身の上を思えば仕方のないことだったのかもしれない。
「茂野。疲れているようですが、大事はありませんか」
咲夜から声をかけられて、茂野ははっと顔を上げた。
「いえ、そのようなことは全く!」
『豊山』の奥の院。
咲夜が部屋を与えられた一間。
茂野は部屋の中に控えることを許されるようになった。
今までは部屋の外の軒下に控えていたのだが、鞠の一件から茂野は座敷に膝をつくことになった。
残念ながら支倉は軒下で障子越しのままである。
「も……申し訳ありません」
村上が茂野の休息を奪っていたので、昼も夜も休む時はないのは事実。
疲れが顔に出ていたのだ。
目の下に隈が、上座から部屋の隅にいるのに見えたのだろうか。
「よいのですよ。いつでも完璧であれなどと妾は申しません。その様なことは誰にもできぬのですから」
先ほどまで咲夜は生け花をしていた。
一息をついて茂野へ視線を投げてみれば、茂野は目を閉じて──寝ていたのだ。
その様は本来責めるべきなのだろうが、咲夜からすれば安らぎみ見えた。
何もかもが完璧であるこの山は、素晴らしいとしか言いようがない。だが自らを欠点だらけだと思う咲夜にとってはそれが眩しすぎて、隙のなさが苦しい。期待に答えられない苦しさに胸を痛める。
茂野の昼寝は、その緊張をどこか緩めた。
「今までの勤めから、急に役目を変えれば疲れも出るでしょう。ただでさえ今『豊山』は慌ただしい中ですものね」
「あの、あの……いえ、その」
茂野は言い訳をするつもりがないのに、どうにか許してもらおうと必死になっていた。
自分らしくないと思うが、その行動をどう説明していいか分からないのだ。
「おいでなさい」
手招きをされ、茂野は叱責を覚悟に膝を刷り体ひとつ分近づく。
それでもまだ足りないのか、咲夜は打掛を軽く払い自らが茂野の前、膝と膝が触れあうほどの距離に付いた。
「あ──あの、あ、『葵山』」
顔が上げられずに、茂野が言葉に詰まると、咲夜は垂れた茂野の豊かな黒髪をくしけずる。
『豊山』から贈られた美しい漆の櫛でも、『葵山』が愛用している椿の梳き櫛でもない。
もっと目の荒く、白く長い咲夜自身の手櫛だった。
「そなたの髪は、冬の終わりの夜空に似ていますね」
「は、あの……」
窒息しそうだと、茂野は思う。
表を下げて気道をぐっと締めているのだから、息苦しさを感じるのは当然のことだが、そのせいではない。
「夜の雲を撫でるように、風が描く黒い線はこうしてたまに跳ねて、そしてまたひとつに纏まります。四季の訪れを告げてまた遠くに流れて……」
指先が髪をゆっくりと梳きながら撫でる。
茂野は顔に帯びる熱に耐えられなくなり、眠気など遠くへ飛んでしまった。




