無色から黒へ
薬師である学者の久照が口にする言葉とは思えない。目に灯る光は真実の輝きを灯す。
久照はひょいと村上を拾い上げると、担ぎ屋敷の中へ連れていく。
「茂野、これに陰陽術を学ばせるが、最終判断はそなたに任せよう」
「私に、ですか!?」
「儂が今忙しいのは知ってのことだろう。そなたは儂が言うのもなんだが、天才である。──時に誰かに教えることでさらに理解が深まることもあろう」
「ですが」
「ほれ、はやく一ノ輪の『葵山』の元へ戻らねば、支倉がまた怒り出すぞ。そなた嫌われておるのが分かるだろう」
「私が支倉様に何か致しましたか」
「天才はこれだから困るのぅ。ほれ帰った帰った。時雨様は健やかにおられると早く『葵山』にお伝えして差し上げるとよい」
久照が茂野を屋敷から追い出すと、美雪はちらりと視線を久照へ投げた。
久照は茂野の後ろ姿を見たまま微笑んでいた。
「旦那様、茂野様も十分お忙しいと思うのですが」
「儂はこれとは相性が悪い。それに儂は一度でいいから茂野が困っている姿を見たいのだ」
「……そういうところは、『大豊山』によく似ておられます」
「なんじゃその目は、儂は第三者として適合の話をしておるのだぞ。茂野は今が一番大事な時期であってじゃな」
「私、時雨様をあやして参ります。奥で松緒様に食事の支度を手伝わせてしまっておりますし」
「おお、こら美雪、そなたその目はなんじゃ」
知りませんと美雪が屋敷に消えていくのを、半端な追い方をして久照はため息と共に足を止め屋敷奥の広間へ村上を放り投げた。
放り投げられた痛みで、村上は目を覚まし、周囲を見回した。
「良かったのぅ、儂が帰ってこなければそなた茂野にみじん切りにされておったぞ。あれは天才であるからなぁ、器用に水餃子の餡にでもされて同志のものたちに振る舞われていたやもしれん」
「……『豊山三ノ輪麓』」
「左様。儂は『豊山三ノ輪麓』久照。今はそなたら『紅葉山』のものたちの暫定的な主であるな」
よいせ、と声をあげて久照は広間にあぐらを掻いた。
もみあげから顎下まで伸び揃えられた髭を擦りながら、青い目でじっくりと村上を観察してる。
「子細は茂野から聞いた。浮冬様から与えられる褒美の件もある。儂ら『豊山』のものが約束を守らぬものだと吹聴されても困るからの、陰陽術を教えてやろう」
「まことでございますか」
「ただし、条件がある」
「条件?」
「そうじゃ、誰しも得て不得手があるように、そなたが術を扱う器であるかどうか見極める必要がある」
「それは道理でございます」
少し身を乗り出し村上と鼻をつき合わせるようにして久照は笑った。
「茂野から一本を取れ。あれに『そなたに教えてやる』と言わせたら、あとは自由にするといい。その為にはどう動いてもいい」
「万が一殺してしまってもよいと」
村上の挑戦的な言葉に、久照は笑って身をばねのように跳ね返らせて膝を叩き笑った。
「はっはっは。若者は口だけだとしても威勢が良くてよいものだなぁ。そなた先ほど茂野に傷ひとつでも追わせたか? 間合いに入ることができたか?」
村上は黙って視線を板間に戻した。
恐らく鍛錬にでも使っているのだろう、広間というには簡素すぎる。
「茂野は、冬に桜が咲くような異常とも言える奇跡の天才であるぞ。一介の山ノ狐が『葵山』の側付きに命じられているという状況は、前に一度だけあったが、その意味は期待と信頼の意図他ならん。茂野はこの巨大な『豊山』で最も『大豊山』の覚え預かる若い者ということだ」
村上は、その言葉を受けて茂野という存在の遠さを計ると共に、『紅葉山』の采配を思った。
『紅葉山』において『葵山』の警護に付いた。
守夏が本来その役目を果たすべきだったのだろうが、その代役であったのだ。
期待と信頼の証はすでに言葉なく村上に向けられていた。
「何があろうと、私は力を得たいのです」
「あいわかった。儂はそなたに力を与える。だが、それがどういうことかは、分かるな?」
「その力を、正しきものに使わねばならぬということでしょうか」
「道から外れた悪道にその力を使えば、儂が処断する。儂の処断はちと……苦しいぞ?」