無色から黒へ
「それは、そなたの主の行いに非を感じたからだろう」
「違います。褒美です、褒美……」
「褒美……だと?」
「亡き浮冬様が、褒美は何でも取らせるとお約束下さいました。それを配下の茂野様が反故になさるとは、結局どこへ行っても切り捨て御免ということなのでございますね。あぁ面白い世の中でございますよ」
名誉でも誇りでもなく、褒美と高らかに口にした村上を侮蔑の視線で刺したが、視線などでは倒れない。
「名もない狐に紛れて生きるのはまっぴら御免でございますよ。私はこの機に賭けておるのです」
「つくづく……『紅葉山』のものは、陰湿なことだ。無駄口を聞く気も失せたぞ」
鞘を抜いて村上の腹に下段から一撃を入れると、茂野が明言した通り村上はもう無駄口を叩くことはできなかった。
「茂野殿! 殺生は……!」
黙っていた美雪がそこで手を止めるように声を挟んだが、茂野はそのまま村上を屋敷の外へ連れ出しうち捨ててやろうと歩き出す。
村上は軽く、その軽さによる跳躍であったのだと茂野は納得した。
年の頃はまだ少年を過ぎたあたりか、すでに一人前の茂野から見れば子供でしかない。
引きずられる形になったところで、村上の背中が玉砂利を転がすのを止めた。
茂野が足を止めたのである。
「なんだ、稽古でも付けてやっておったのか」
声は低い。
そしてずっしりと重みを持っている。
豊楽殿正面入り口から姿を現した稲荷神を見て、美雪はほっと一息駆け寄った。
この屋敷においてはもっとも位が高い。
『豊山三ノ輪麓』久照だ。
「旦那様、お帰りなさいませ」
「おう時雨様も機嫌が良さそうだの。先ほどな麓の子狐から、でんでん太鼓を貰ったので差し上げようか」
懐から玩具を取り出して時雨に与えてから、久照は弟子の茂野とまるで塵のように引きずられている山ノ狐へ視線をやった。
「何を荒ぶっておるのか。庭を荒らすな茂野」
「も……申し訳ありません」
茂野はぱっと村上をひきずる手を離すとこの場では一度も付けなかった膝を地に付けた。
「それは……なんじゃ」
「『紅葉山』からの山ノ狐で……」
「あぁ、村上か。何をしたこのわっぱが。このように傷だらけになって」
久照が歩み寄り身をかがめて村上の着物をつんと引いた。
「久照様はご存じなのですか」
「おお、こやつが『紅葉山』に張られていた鉄壁の結界を内から壊した。そうでなければ我らは裏参道から上がることもできなかった。そなたが『葵山』を助けるのに裏方として一役買った存在であるぞ」
村上もそんなことを言っていたが、茂野は全く信じていなかった。
「村上が、久照様に教えを請いたいと来たのですが、茂野様と小競り合いになって」
美雪が簡潔に説明をすると、久照は唇の上だけで笑みを浮かべた。
「茂野、そなたがそうかっかするとは珍しいな。『紅葉山』のものに力を与えるは危険と判断するか?」
「何を考えているか分かったものではありません。我らの助けになったとしても所詮裏切り者です」
侮蔑の表情を浮かべる茂野の眉間を、久照は人差し指で押して皺を伸ばした。
「この山ノ狐自体を憎んでいるわけではないな? そなたは『紅葉山』の影が『葵山』に差し掛かるのを畏れているのではないか?」
茂野は師である久照の言葉に、いつもの冷静さを取り戻し黙って意味を探った。
「儂はこれでも、『大豊山』の侍従であるからな、気持ちはよくよく分かるぞ」
ぽんと肩を叩かれ、茂野は黙ったまま表を下げる他言葉が見つからない。
「この山ノ狐が褒美は陰陽術を身につけることだと言うのなら、それを与えてやらねばなるまい」
「しかしまだこんな幼く非力で適正もあるか分からぬ山ノ狐に陰陽術を学ばせるには無理があります」
「だが、儂は『豊山三ノ輪麓』久照として、亡き浮冬殿の誓いを遂行せねばならない。浮冬殿が最高の侍従であったと語られるために、汚点を残してはならない。なかなかに下々の者達の噂というものは影を落とすものだからのぅ」
「もし、この山ノ狐が『豊山』に害為すために教えを用い『大豊山』を傷つけた時はどうなさるのですか」
「処断する」
簡素な返答であった。