無色から黒へ
「時雨様、美雪様、お下がり下さい」
茂野が玉砂利を踏み近づいてくるので村上は急いで間合いを取った。
一足飛んで大きく距離をとる。
その脚力を見て茂野は「まぁ警邏を勤めていたのなら、無力な山ノ狐ではないようだが」と評価する。
だとしても、陰陽術は山ノ狐が易々と極められるものではない。
主である稲荷神らは、自然と大地から地脈の力、そして信仰の力を吸い上げる力を持って居る。
従者である彼らはその術を持たない。
そこで地脈の法則を解析、間借りして放つのが陰陽術である。
主の振るう威力とは比べものにならないが、それに近似した力を叩きつけられるのだ。
ただで済むはずがない。
距離をあけただけで村上は逃げる姿勢をみせない。
茂野の次の手を待って居るようだ。
「丸菊」
茂野の導きで村上の左方空間が爆ぜた。
暗闇に咲く花火のように虚空に炸裂した火花の形は、その術の名の通り菊の花に似ていた。
身を退け再び距離を取る。
頭上に放たれたらひとたまりもない。
怪我で済めばかわいいものだ。
「今ので分かったか。子狐が安易に振り回す術式ではない」
「しかし外されましたな」
「わざと外してやったのが分からないのか、たわけめ」
「威力を見物に来たのではなく、教えを請おうとして来たのです」
村上は煽ったわけではないが、茂野はその言葉に苛立ちを覚えたようだ。
下げていた両手を前へ突き出すと大きく左右へ広げ、手の平をつきあわせて大きな柏手を一度打ち付けた。
乾いた空気の中に響いたその宣告の拍手に応じて、瑠璃の数珠が光を孕んだ。
「乱れ丸菊!」
先ほどは一輪だけ咲いて散った丸菊の破裂が、村上を囲うようにして一斉に咲き誇った。
視界を突然焼き尽くすかのように咲いた火花の塊に、村上は咄嗟に目を閉じた。
ほんの数秒──目という機能を守るために瞼の裏が視界を満ちる。その暗闇をも、炸裂する火花が赤く焼く。
その赤は──『紅葉山』の主の目の色と同じ。
薄の穂のような煤けた自分の髪とは違う、ひとの子の深い信仰で織り上げた絹のような張りのある金髪。
今この国の全ての稲荷神から刃を突きつけられ、身を守る盾も剱も手放している。
その身が流す血も涙も、誰も返り見ることなどないのだ。
そう思えば、今自分が流す血とは傷とは、なんと明瞭なものだろうか。
痛いと言って喚くことも、すがりつくことも許されるのだ。
整然と並んでいた玉砂利を弾き、小石がぶつかり合う音をかき消して、破裂音が響く。
咲いては枯れる丸菊の輪舞を受け、村上は目を開けられないまま押し出され、地に膝をついた。
乱舞が終わってやっと村上に自由が戻ってくると、瞼をあげて前方を眺める前に、肩に重いものが乗った。
それが、頬を照らす輝きの反射で剱であることを悟る。
その剱を横へ凪げば、村上の命は簡単に終わってしまう。
「久照様の豊楽殿を子狐の無用な血で汚すわけにはいかない。早く去れ」
村上は傷を負った頬を擦り、茂野の言葉を横ぎって続けた。
「私には必要な力です。諦めるわけにはいかないのです」
「傷の手当てをせねば死を招くぞ」
「死にたくはございませんね。そうです……死にたくはね……」
村上は笑っていた。
自然と笑みがこぼれた。
常時であれば特に気を止めるほどのことではないが、茂野にはその笑みが異常に映った。
痛みや、死が恐ろしくはないのだろうか。
やはり『紅葉山』出自のものはどこかおかしい。
場を塗り替えていた殺伐とした気配が消えたことで、村上は眉を寄せた。
「茂野様、何の為に私が『紅葉山』を裏切ったかお分かりですか」