青から黒へ
「名前は──何と言いましたか」
咲夜は奥の院で独り言のように呟いた。
部屋には陽光が差し込んでいたが、咲夜は床の間に近い影に半分体を預け半ば放心状態にあった。
松緒も時雨も側にはいない。たったひとりきりである。
「そなたの名です。『紅葉山』から妾を助けてくれたというのに、礼を言わずにいましたね」
そこまで告げられて部屋の外に控えていた茂野は顔を上げて名前を告げた。
「茂野と申します」
「茂野──礼を言います」
できるだけ心を込めたつもりではあったが、それでもその礼は咲夜にとっては嘘だった。
「私は『大豊山』の命に従っただけ。お気持ちは『大豊山』へお向け下さい」
並んでいた支倉は出し抜かれたような気がしたが、文句を言うわけにはいかない。
支倉は、茂野のことを『葵山事変』で顔と名前を知ったばかりだ。
自身も『葵山事変』で『紅葉山』へ赴いていれば功績を上げられたのにと思うと悔しいのだ。
──ただ命の危険があるからと一族がしつこく引き留めたので『豊山』に残るしかなかっただけで。
『葵山』を救出したからといって、一介の山の狐である茂野が自分と肩を並べて同じ責務をこなしている。
『雪沙灘』侍従の二子として恥ずかしいと思うし、自尊心を痛く傷つけた。
咲夜と会話を許された茂野は、『葵山』侍従への道を支倉より先に駒を進めているように思えた。
支倉としては咲夜に顔を覚えられ早く信頼を得たかったので、茂野に続いて声をかけた。
「『葵山』何かお望みのものはありますか? ご不便があれば何なりと」
今欲しいと思うものは、全て届かないところにある。
『紅葉山』も時雨も、松緒も、侍従たちも、愛する山すら届かない。
本当に咲夜に必要なものは、強い自分自身だ。
手の届かないところにあるものを守るための力。
だがそれをこの従者達が用意してくれるわけがない。
今、できることを考えつく限り行うしかない。
もう『紅葉山』が手引きをしてはくれないのだ
「……こちらへ」
何事だろうと支倉と茂野は顔を合わせた。
すっと障子を開けて中を伺うと、咲夜の手には折り紙があった。
「ねぇ、そなた山のものでしょう。手鞠を作っているのだけれど、折り方を知っていて?」
それは時雨へ渡そうとしてのものだろう。
畳に広がっている彩りの紙を一枚拾いあげ、咲夜は困っていた。
「これをこう、組み合わせるのではなかったかしら、いつもは松緒が手ほどきしてくれるのだけれど」
支倉はこんなおなごの子供遊びはとうに忘れてしまっていたが、茂野は妹がいたのですぐに折り紙を折ってみせた。
半分にして、切り取って、右と左を変えて折るのだと教えると咲夜は初めて茂野に笑いかけてくれた。
「器用ですね茂野。『豊山』には山ノ狐も多くいるでしょうから、教えてあげていたのかしら」
「はい、妹弟が多くおりますので」
「よい兄ですね。父も母も立派な跡取りがいて幸せでありましょう」
「いえ、まだ力足らずで」
「妾も同じです。お兄様を困らせてばかり」
「そんなことはありません!」
茂野が咲夜の言葉を遮るように声を上げたので、咲夜は折り紙をする手を止めて顔を上げた。
「あ……その……失礼致しました。『葵山』は尊敬すべき御方です。ですからそのような事は仰らずに」
茂野の言葉に、咲夜は儚げに笑み茂野と支倉へ視線を交互に投げた。
「支倉もそう思いますか?」
「当然でございます。三朱『雪沙灘』の忘れ形見、総本山も眩む麗しさ。おなごたちは皆、『葵山』に憧れております。『大豊山』がこれほど大事にされておられるのです。卑下なさることは一切ないと」
「『葵山』はお優しい御方。そのお力で『大豊山』にお力添え下さい」
茂野の言葉に、咲夜は視線を茂野の青い目に戻した。
「あなた様は、あなた様だけの立派なお力をお持ちです。『葵山』」




