青から白へ
深いひとの子の信仰が磨き上げた奉納剱。
この山を深く信仰した戦武者が本殿脇の一ノ輪の社殿に納めた一振りだが、他、名だたる名山の奉納刀と異なる点はひとの子の血を吸っているということだった。
この剱は多くの武弁を切り捨ててきた。
武者の人生を大きく変えた一振りであることから、死後にここ『豊山』へ奉納され崇められてきた。
刀長は二尺二寸九分。
奉納の際に誂えられた鞘は花桔梗を透彫りにした銅板製鍍金の筒金をはめ、上から黒漆を塗って研出され鐺は橘を高彫りし鍍金を施している。
多くのものを切り捨ててきた。命も、時代も──
そして、守夏の迷いも。
「袖を濡らすものが、例え血潮であったとしても」
『豊山』は守夏の言葉にゆっくり笑みの形を作った。
「空虚な私を必要として下さる限り、私はあなた様の悩み愁い全てを取り除く刃となります」
『豊山』の手が伸びて、守夏の手にあった剱が引き抜かれる。
美しい花の細工に光を灯すように、白刃が露出する。
鋭い切っ先を守夏に突きつけたまま『豊山』は手にした剱の切っ先を守夏の心臓より下。
かつて『紅葉山』の奉納剱がつなぎ止められていた同じ場所へ向けた。
『豊山』はそのまま刃を守夏の体に突き立てた。
白く輝く剱が守夏を貫いたが、血しぶきが畳や障子を汚すことはない。
まるで溶けていくかのように刀身が守夏に吸い込まれていく。
守夏の体へゆっくりと同化していく剱自体が発光し『豊山』の瞳を白く染める。
これは、契約の儀式だった。
柄を飲み込むまで、守夏には痛みに似た痺れが体を支配し指一つを動かすことができない。
流れ込んでくるのは痛みだけではない、『豊山一ノ輪麓』の見てきた全て、山の繋がり全てが溶け込んでくる。義兄が見てきた光景。
そして死の淵に至る最期の景色も。
最期の景色は、赤い瞳から涙を落とす『豊山』の白い顔であった。
────わ、たしは
懐かしい、浮冬の声が心に染みていく。
響いて止まない。
逝ってはならない、まだ役目があるのだと、『豊山』の叫び声が響く。
途切れそうな薄くぼやけた視界という名の記憶が、『豊山』の不器用さを様々と映していた。
──私は、正宗様の侍従として、役目を果たせましたか
その言葉は、音になったのか、『豊山』の表情が凍てついたように固まり、すぐに氷層に亀裂が入り、再び涙が落ちる。
縦に大きく首を振ったはずみで、その涙は夏の雨のようにぬるさを持って、浮冬の頬を濡らした。
浮冬は、恐らく笑顔を浮かべようとしたに違いない。
そのほのかな感覚が、守夏の頬に走る。
緊張にも痙攣にも似た頬の引きつり。
──愛しております
その言葉は、『豊山』に届いたのか分からない。
分からないが、浮冬は自分の命の炎が揺れて、消える瞬間まで同じ言葉を繰り返した。
──正宗様を、愛しております。
そこで、先代から続く『豊山一ノ輪麓』の記憶の継承は終わった。
義兄は本懐を遂げて逝ったのだ。
継承の最中、意識を失ってしまったのだろう、守夏は『豊山』に抱き留められていた。
畳の目に食い込ませていた手を解放して、息を吐く。
山の空気に味を感じる、色を感じる。
略式ではあったが『豊山』の望みを受けて、守夏は再び名を得た。
「『豊山一ノ輪麓』守夏」
『豊山』が呼ぶ名が、一刻前とは違う響きを得て、体中に充ちる。
しばらく失われていた感覚だった。
「そなたはこれより私のものだ。私のために生き、考え、眠るのだぞ」
『豊山』はもたれた守夏の背へ回した手に力を込め、本当に小さな声で最初の命を下した。