青から白へ
三朱を前に恥ずかしいことだったが、涙が浮かび、目尻から落ちた。
「ここからの話は、そなたの未来についてだ」
『豊山』は震える守夏を見ないようにして手にしていた刀を前へ押し出した。
白銀の柄。
細かな銀の細工が施され豊山の稲荷紋が意匠されている。
これが何であるかは、すぐに分かった。
今は亡き兄、『豊山一ノ輪麓』浮冬の振るった刃。
浮冬と『豊山』。
主従の絆であり証。
「浮冬に持たせていたものだ。これをそなたに与えたい。私の『豊山一ノ輪麓』となってくれるか、守夏」
「ですが──」
「その器は充分にある。然るべき選出であると考えているが」
黙してしまった守夏の前に、『豊山』は続ける。
「あえて内々の話をするならば、三朱である私の一ノ侍従に相応しいものが、今そなた以外にはおらぬのだ。久照はこういったものを嫌がるし、唯一条件が合う鬼嶽も今は『大江山』を守る身で侍従にはつけられない」
奥の間は恐ろしいほどの沈黙に満ちた。
「考える時間は、必要か?」
膝の上で手を握りしめる守夏に、『豊山』は思う。
繋がりを断たれ、左目を失い、生死を彷徨い何ヶ月も伏せっていたというのに
それでもなお、この従者は『紅葉山』を思う気持ちを捨てられないのだ。
『紅葉山』はなんと愚かなことをしたのだと、『豊山』は心底思う。
「『紅葉山』はそなたに何と言ったかは知らぬ。だがそなたは間違いなくこの稲荷で最も気高き侍従だ」
守夏は座敷に置かれたまま兄の名残を黙って見つめるしかできなかった。
おそるおそる──義兄の名残に触れる。
指の腹が柄に触れた瞬間、懐かしい感覚が体の隅まで届いた。
「私の主は、気高く理想にまっすぐであるから、不器用な処も多い。正しくあろうとするがそれがままならぬことで酷く苦しまれる」
いつぞやの春、『豊山』へ『紅葉山』と訪れた際に、兄が己の傍らでそう言ったことを思い出す。
お互いの視線の先には、同じ顔の主人が向かい合って将棋を打っている。
「そう──なのでしょうか」
「まだお前には分からないかもしれないな。『大紅葉山』はあまりそういうことを感じさせない。そう言う意味では呼吸をするように世を動かすことができる御方だ。私の主は不器用だから、それができない」
主を正確に捉えているのか、浮冬はそう言うと守夏へ視線を投げた。
「我らの主に、できぬことなどないのではないですか」
「『紅葉山』は完璧か?」
「はい。当然『大豊山』も完璧であると思います」
浮冬は、少しだけ考えて守夏の肩にそっと手を置いて、ぎゅっと力を込めた。
「守夏。私がもし命を落とすことがあれば、正宗様を支えてくれ。『紅葉山』は完璧でも、私のあの方はそうではない。私がいなくなった時に、支えるものが必要なのだ」
手の甲に涙が落ちたことで、守夏は現世へ戻ってきた。
表を上げると、『豊山』の顔があった。
兄、浮冬が命をかけて守ってきたもの。
道を踏み外した主を正すことができなかった、自分に許しを与えてくれた存在。
「泣くな守夏。私はもう浮冬のことで泣くのは止めた」
「兄上に、手向けの涙を流して下さったのですか」
「咲夜の侍従を切り捨てた身で流す涙など、あってはならぬと思うか?」
孤高の存在であることを、守夏はその言葉で思い知らされた。
浮冬はこの稲荷神の弱さを全て受け入れて、刃となって生きてきたのだろう。
だからあれほどまでに強かったのだ。
不器用なこの稲荷神を、完璧にするために。
「私が涙を流す時、そなたの袖を濡らすことになるだろう。私は他の誰にも弱さを見せるわけにはいかない。侍従となるそなただけが理解してくれれば、私は変わりゆこうとするこの世をあるべき形で留めるために力を振るうことができる」
守夏は指先だけで触れていた剱をゆっくりと手に収めた。
ずっしりと重い。