【第一章 ミネコ博士とジェリー氏】④
ルミとアーチィの二人はビクトリア駅の前で馬車から降りた。ビクトリア駅はまだ作られて新しい。煉瓦の色は国会議事堂よりも鮮明かつシックだ。駅前の広場には様々な人たちで混雑していた。火を噴いたり、危ないことをして小銭を稼いでいる働き者もいる。魔女じゃないのにそういうことをする人たちは変わり者でそのほとんどが南部地方の砂漠の向こうから王都へやってきた流浪の民だが、王都の民はそういうエキセントリックな連中が嫌いではないのだ。皆気前よく、小銭を、あるいはチョコレートを、チューインガムを、キャンディを、またシガレロを変わり者たちに投げている。
とそこへ警察がやってきて、集合していた民たちを解散させ、素早い反応で逃げて行ったエキセントリックな連中を追い始めた。
そういう風景を視界の隅に入れながら、ルミは馬車の料金を支払った。ルミは納得がいかなかった。アーチィが払うべきだと思うのだ。アーチィはスーツケースを片手に足早に中央改札へ向かう。きっと、様々な女の子たちに夕食をご馳走になっているのだと想像する。あのスーツケースも自分の給料で買ったものではないかもしれない。実に不愉快だ。そういう目をしてルミはアーチィの後を追う。
すると、見慣れた二人組に遭遇した。いや。
「おーい、ルミちゃーん、こっち、こっちだよぉ」
遭遇、というのは間違いかもしれない。ジェリーとミネコは、まるで約束して、ルミを待っていたみたいに手を振っている。二人は中央改札の前で、愉快そうだった。アーチィは振り返って訝しげにルミを見る。ルミは一度目を伏せ、アーチィの横を通過して、ジェリーとミネコに駆け寄った。「あの、どうして?」
「ジェリーたちも一緒に行くよ、とても、いい天気だから」ジェリーは山高帽子を被っていた。そして小さなリュックを背負って、太陽が眩しいというポーズで目を細めていた。
ルミは空の色を確認する。「安心の曇り空じゃないですか」
「ビックリしたでしょ、ルミちゃん?」
「ええ、そりゃあ、もう、なんていうか、ビックリしました、だって約束してないから」
「インヴァテスにベッキィがいるって分かってっても、ジェリーのデルタがないと見つけるのに六十倍の時間がかかると思うよ、」ジェリーはルミの顔をじーっと覗き込んでクスクスと笑う。「ルミちゃんったら、何も言わずに行っちゃうんだもん」
「ああ、その通りです、ジェリー、私ってばお嬢様のことになると、何も見えなくなって興奮しちゃうから、でも、悪いことじゃないと思うんです、違いますか?」
ジェリーは首を横に振って気持ちを分かってくれた。「あ、ねぇ、乗り合わせてもいいよね?」
「ええ、もちろん、むしろお願いしますです、ありがとう、ジェリー、それより、ミネコ博士、なんなんですか、その格好?」
「日本の民族衣装だよ、着物っていうの、素敵でしょ?」
ミネコは頼んでもいないのにその場で一回転した。袖がふわりと浮かび、裾が踊る。青い生地の上に花鳥風月が散りばめられている。ルミは頷いた。とても素敵だ。レベッカに着せたいと思う。火の魔女のレベッカには真っ赤な着物が絶対に似合う。
「……えっと、ルミ、こちらのお嬢さん方は?」
いつの間にか隣にアーチィが立っていた。口角がきちんと持ち上がった素晴らしいスマイルを二人に向かって見せている。ルミは口の中で小さく舌打ちをして、気前よく、二人を紹介する。
「ミネコ博士とジェリー氏です」
「アームストロング邸で執事長をしています、アーチィです、」アーチィは極上のスマイルのまま、ミネコに向かって手を差し出した。「この度はお嬢様のためにご協力いただいたようで、感謝しています」
「いいえ、とんでもない」ミネコは大人な微笑を見せる。
そしてアーチィは続いてジェリーに手を差し出す。
「……ええっと、どうなさいましたか?」
アーチィがスマイルを崩したのは、アーチィと握手せずに、ジェリーが笑いを堪えながら、ミネコの後ろに隠れたからだ。ミネコが聞く。「どうしたの、ジェリー?」
「だって、」笑いが収まらないようだ。「だって、アーチィだよ、ミネコ」
「分かってるって、ジェリー、」ミネコも笑いを堪えているようだった。「でも、礼儀は大事だよ」
「礼儀もなにも」
「めっ、ジェリーは十七歳でしょ?」ミネコはジェリーの頬を優しく抓る。
「はぁい」
ルミにはよく分からないやり取りの後、ジェリーは舌をペロッと出してから、アーチィと握手した。アーチィは微笑んでいるが、その微笑みはぎこちない。「……よろしく、ジェリー」
「はい、アーチィ」
「ジェリー、君の噂はかねがね」
「どんな風に?」
「ジェリーのデルタが見つけられないものはないって」
「うん、その通りだね」
「お嬢様を見つけてくれると、僕は信じています」
「もう見つけているよ、ジェリーのデルタはもうベッキィを見つけている、」ジェリーはデルタを手の平から垂らした。デルタは空中に浮かんでインヴァテスの方向へ、ジェリーを誘っている。ジェリーはデルタを空中で掴んで、胸元にしまう。「後はデルタが引っ張ってくれるところまで行くだけ」
「素晴らしい魔法です、」アーチィは歯切れよく言った。「あなたはきっと、将来素晴らしい魔女に、」
「フランクになろうよ、アーチィ、」アーチィの声を遮るようにジェリーは言った。「もっとアーチィの素顔を見せてよ」
「は?」アーチィは一瞬素の表情になって、素早く顔を作り直した。「……え、いや、……何をおっしゃられているのか?」
「ジェリーの相談室には様々な女の子たちが来るよ、デルタを頼りにやってくる女の子もいるし、ジェリーの他のレパートリを頼りにしてくる女の子もいる、ただ不幸を相談しに来るだけの女の子もいる、相談室には様々なことに困っている女の子が来る、でも、困っている女の子ばかりじゃないんだ、女の子って幸せだとその幸せを誰かにおすそ分けしたくなっちゃうんだよね、ああ、いい迷惑だよ、本当、幸せをただジェリーに聞かせるためだけにお金を払う女の子もいるんだ、信じられないかもしれないけれど、いるんだよ、誰にも言えない禁断の幸せをジェリーにお金を払ってまで聞かせようとするんだよ、あーあ、一体何回、いや、何十回聞いたんだろう、アーチィっていう素敵な男性に幸せにされちゃったっていうシンデレラストーリを」
アーチィは無言で握った手を話した。そしてスマイルをゆっくりと顔から消して、スーツケースを持ち上げて歩き出した。「……ああ、やりにくいなぁ」
「ああ、ちょっと、ねぇ、待ってよ、」ジェリーは悪戯な笑顔をルミに見せて、アーチィに追い付いて並んで歩く。「ジェリーは君に、興味があるんだよ、何も非難しているわけじゃないんだ、冗談じゃない、本当のことだよ」
ルミも歩き出しながら頭上に『?』マークを浮かべていた。ジェリーとアーチィのやり取りの意味が全く分からないからだ。ルミはミネコを見た。ミネコは苦笑してから、ルミの手を触って引っ張った。そしてルミはとても愉快な光景を目撃する。
駅の窓口でアーチィが四人分の切符を購入していたのだ。会計を済ませると、アーチィは切符をジェリーに、ミネコに、そしてルミに渡した。マジマジと切符を見るとそれは一等車のものだった。ルミは口に手を当てて驚く。「え、リーダ、一体全体どういうことですか?」
「ほら、もう時間がない」
アーチィは表情をルミに見られたくないのか、ルミの背を軽く押して、先に行かせる。
四人は中央改札を通って、ホームへ、そしてインヴァテス行の列車が停まっている九番線まで歩く。ルミは蒸気機関から排出される香ばしい匂いを嗅いだ。列車に乗るのは何年振りだろう。最後の思い出は、そうだ、お嬢様と、……どこへ行ったんだっけ?
「私は何もしていないのに!」
冤罪を訴える叫び声は突然だった。驚いてそちらへ目を向ける。その声は一等車の窓の向こうからだ。窓の向こうの白い髪の女性は窓を叩きながら叫んでいた。視界の隅にソウロン警部の姿が見えた。ルミはその女性と一瞬目が合った。すぐにカーテンは閉じられた。
ルミは思わずその場で立ち止まってしまった。
一体なんだったんだろう、って。
「おーい、ルミちゃん、何してんのぉ?」別の一等車の入り口で体の半分を出してジェリーが呼ぶ。ルミ以外の三人はすでに列車の中にいるようだ。
「あ、ごめんなさい」
ルミは一度窓を見てから、入口までゆっくりと走った。
ジェリーはルミの手を優しい力で引っ張って、顔を近づけて囁いた。「何か考えているの?」
「うん」ルミは否定しない。
「ジェリーに相談?」ジェリーは笑った。
「はい、ええっと、その前に、部屋は?」
「ここだよ」ミネコがスライド式の幅の狭い扉の前で手招きをしている。
個室に入るとアーチィは窓際に座って頬杖付いてホームの方を見ていた。その対面にミネコが座る。アーチィの隣にジェリーが座ってくれたから安心してルミはミネコの横に座ることが出来る。ルミは荷物を荷棚に置いた。そして、ジェリーを中心とした会話が始まった。アーチィはジェリーに言われたようにフランクに会話に参加していた。一見クールなミネコも冗談を言っていた。ルミはというと、上の空だった。気になってしょうがなかったのだ。
汽笛が鳴り、列車が走り出す。
心地のいい、乱暴な揺れ。
それに付随する、やはり心地のいいノイズ。
そのざわつきが、相談に丁度いい。
ああ、そういえば、ジェリーの相談室も同じようだった。
「ルミ、ジェリーに相談?」
「うん、気になることがあって」
「話してみて」