【第一章 ミネコ博士とジェリー氏】①
翌朝。
目に巨大なクマを付けたルミは箒を片手にアームストロング邸から街へ出た。ルミはメイド服からベージュの地味なワンピースに着替えていた。髪は三つ編みにしていた。ただ降ろしているよりも可愛げがあるように見えるからだ。箒を持っているのはカモフラージュである。ルミはあまり街に出たことがない。少し怖いから魔女の振りをしているのだ。アームストロング邸を出てチェルシーの方角に十分くらい歩くと噴水を中心にしたラウンドアバウトに出た。混雑している馬車の隙間を通ってルミは噴水を背に立ち止まった。そしてファーファルタウの地図を広げた。そして道を間違えていないことを確かめて、さらに南の方に歩く。アスキィのパン屋から香るシロップの匂いを嗅ぐ。徐々に道幅が狭くなり、人の往来が減っていく。ルミは地図を見ながら、一度目的の場所を通過した。少し歩いたところで気付いて、引き返す。
『バイクストリート176A』。
そこにある六階建てのマンションビルの四階にニッキィ・サリヴァンの部屋がある。ルミは外からその部屋を見上げて、そして狭いエントランスに入り、マンションの階段を登った。マンションは老朽化していて、階段はみしみしと音を立てる。そして四階の階段に一番近い部屋、四〇五号室のベルを鳴らした。
ルミはこのベルの音が好きだ。
しかし、ドアは開かない。
もう一度ベルを鳴らす。
結果は同じだ。
ルミはドアをじーっと見てから、ドアに耳を当てて部屋の中の様子を窺った。よく分からない。ルミは魔女じゃないから、もうこうなったら、中へ入るしかないと思った。マスターキィをルミは持ってきていた。ニッキィと鉢合わせになるのは憂鬱なことだが、仕方がない。鍵を穴に差し込んで回して、そのままドアを押して中に入った。
ワンルームの狭い部屋。
様々なガラクタが部屋中に散乱している。
まるで竜巻でも起こったようだ。
ルミは部屋に足を踏み入れた。ガラクタを蹴り飛ばしながら部屋を歩く。部屋の中央で一回転して人が隠れることの出来そうな場所を探す。が、そんなスペースは安い家賃のこの部屋にないことは明らかだった。はっとして天井を見上げる。もちろん、天井にニッキィがへばりついている訳もなかった。
この部屋には誰もいない。近い時間に誰かがいたような、そういう空気でもない。空気は冷えていた。ルミは施錠されていた窓を開けて、そこから階下を見下ろした。そして窓を閉めて部屋から出た。ドアを施錠して、ドアにもたれ、目を閉じて大きく息を吐いた。
「どうしたの、お嬢さん」
突然声を掛けられ、ルミは目を見開いた。階段の方向からショートヘアの黒髪の女性が歩いてくる。白いブラウスに黒いロングスカートというシンプルないでたち。背が高くスタイルがいい。瞳の色は緑。顔のつくりは幼く、東洋人の血が混じっているのかもしれないとルミは思った。彼女はスーパマーケットの紙袋を抱えていた。
「あ、いえ」ルミは一度首を振って、反射的にその場を後にしようとドアから離れた。
「ニッキィの友達?」黒髪の女性はルミを邪魔するように正面に立った。
「まさか、」ルミは微笑んで返す。「ただの、……そう家賃の取立てです」
「あれ? 家賃の取立てに来るのはいつもベッキィだよね、どうして今日に限って?」
「私はアームストロング家のメイドです、レベッカ様の専属メイドのルミです、だから何でもします、家賃を回収できなかった、それだけです、今日は、すいません、急いでいるので」
ルミは女性の横を通って階段を降りようとする。
しかし、女性は狭い廊下を利用して通してくれない。「待ってよ、とても深刻な表情をしていたけれど」
「生まれつきこういう顔なんです」
「待ってってば」
黒髪の女性はルミの手首を掴んで素敵に微笑む。男が女を騙すとき見せる種類のものだ。ルミはそういった種類のものを激しく嫌悪している。頭に血が上ってしまった。「何なんですか、あなたは?」
「ごめん、怒らせるつもりはなかったんだけど、」女性は手の平を広げてなお、ルミを妨害している。「その、困っている人をほっとけなくて、私、ミネコ、ねぇ、ジェリーに相談してみない?」
「はあ、ジェリー?」
「うん、四〇四号室はジェリーの相談室よ」
「……相談室?」ルミは振り返ってニッキィの部屋の隣のドアを一瞥。確かに『Jelly’s Consultation Room』と小さな看板が掛けられている。しかし、別に悩みを解決しに来たわけでもない。「いいえ、結構です」
ルミはミネコを押しのけて、階段へ向かった。
そのときだった。
シルクハットをかぶった髭を生やした紳士と、他に二人の警官が階段を登って来た。
ルミは立ち止まる。
紳士はルミを一瞥、そしてミネコを見て微笑んだ。「おはようございます、ミネコ博士、ジェリー氏はご在宅かな?」
「おはようございます、ソウロン警部、」ミネコはルミの袖を掴んだ。「いると思います、でも、寝ているかもしれません」
ソウロン警部は四〇四号室をノックしてドアを開けて中へ入って行った。二人の警官は無表情で待つ。ルミはミネコを上目で見た。「……頼りになるんですか?」
「あともう少ししたら、チェルシーガーデンに事務所を構えられるくらいの資金が貯まるわ」
チェルシーガーデンは約五千種の植物が植えられている王都の研究施設である。その敷地内には一軒だけ民家があって、売りに出されていた。ミネコはきっとそのことを言っているのだ。その民家の値段はルミが一生、メイドを続けても稼ぐことのできない額だったと記憶している。それくらいの実績が、ジェリーという人にはあるのだ。
ルミは、少し考えた。
ソウロン警部はすぐに部屋から出てきた。
「それでは」ミネコに会釈をして警官二人を引き連れ、ソウロン警部は足早に階段を降りて行った。
ミネコはルミの袖を引いて部屋へ誘う。「で、何のご相談?」
「はい、……実は、」ルミは言いかけて、しかし、部屋の中の机に腰かけるジェリーという人を見て、それを飲み込んだ。「…………」
「どうしたの?」ミネコが怪訝そうに聞く。
「ああ、おかえり、ミネコ、」ジェリーが言った。「えっと、誰、その娘?」
「帰ります」ルミは踵を返した。
「え、どうして?」
「だって、」ルミはジェリーを指差し言った。「まだ、子供じゃないですか、なんですか、私をペテンにかけようとしているんですか?」
ジェリーはまだ十歳くらいの小さな女の子だった。フランス人形のようにキュートな女の子だった。ブロンドのロングヘアに、ブルーの瞳。とても綺麗な女の子だった。ルミは子供が大嫌いだが、公園で同じベンチに座ったらきっと声を掛けてしまうだろう。それくらい綺麗な女の子だった。ジェリーは街であまり見ないファッションをしている。紺色のブラウスに黒いネクタイに、紺色のロングスカート。腕には一流メーカの時計をしていた。カーキ色の重たそうなレザーブーツを履いている。ジェリーは行儀悪く机に脚を乗せていた。左耳にはささやかにダイアのピアス。
「ルミちゃん、少し落ち着いて」
「時間の無駄でした」ルミは部屋から出た。
「行方知れず?」
背中に投げられた声を聞いて立ち止まる。その声はとても大人びている。ルミは振り返って聞く。「……ど、どうして分かったんですか?」
「やっぱりそうか、」ジェリーは自分のブロンドの髪を触りながら言って、咥えたシガレロに火を点けた。「ベッキィを探しているの?」
「ええ、お嬢様です、……えっと、どうして?」
「ジェリーはよくニッキィとベッキィの相談に乗っていた、」ジェリーは自分のことをジェリーというようだ。きっとナルシストだとルミは推測した。「ベッキィは君のこともよく話してくれた、昨日も二人はジェリーのところにやってきたよ、『今夜はバルーン・フェスティバルへ行くの』って」
「バルーン・フェスティバル、ああ、だからお嬢様はドレスを」
「ニッキィはとても愉快そうだった、それからジェリーはニッキィを見ていない、帰って来ていない、そして君の表情を見てベッキィも家へ帰っていないことが分かった、ジェリーは考える、ニッキィはともかく、ベッキィは朝帰りなんてしない、ルミは混乱しているね」
「ええ、その通りです、ジェリー、」ルミは早い動きでジェリーの机に手をついた。「お嬢様は朝帰りなんてしません、だから私は寝ずに玄関ホールで待っていました、でも、お嬢様は朝になっても帰ってきませんでした、だから、私はニッキィの部屋に来たんです、もしかしたらニッキィがお嬢様にいけないことをしているんじゃないかって思って、でもニッキィの部屋はガラクタが散らかってて、とても汚い、ええ、とても汚いだけ、お嬢様はいなくて、だから、私はニッキィがお嬢様を誘拐したのではないかって、いいえ、それでなくても変なところに連れて行ったのではないかって」
ルミの肩にミネコの手が触れた。「とりあえず、座りましょうか?」
「……はい、」ルミはソファに腰かける。「……ええっと、とにかく、私はニッキィが原因だと思ってるんです、全部、ニッキィだと思うんです、ええ、きっとそうなんです」
「うーん、その根拠は?」ジェリーは頬杖ついて聞く。
「ニッキィは悪い魔女なんです、」ルミは真剣に言う。「ニッキィに会うまでは、お嬢様はちゃんと毎日学校に行って、ちゃんと夕方の五時までに帰って来て、ちゃんとピアノのレッスンに出かけていたんです、この隣にニッキィが引っ越して来てから、お嬢様は不真面目になりました、学校もサボりがちになりましたし、帰りも遅い、レッスンにもいかなくなりました、きっとニッキィが何か悪い魔法をかけたんです、正直言って予感していたんです、お嬢様がどこか遠くへ行ってしまうかもしれないって」
「それは、何だろう、」ジェリーは苦笑していた。「……推測?」
「ええ、でも、きっと、そうだと」ルミは真面目に答える。
「ルミちゃん、安易な推測は危険だよ」ジェリーは優しく窘める。
「どういう意味ですか?」ルミは少しムッとする。考えを否定された気がしたからだ。「ジェリーだって、簡単に推測をして、その推測はその通りだった」
「ジェリーは君の顔を観察しただけだよ、」ジェリーは自分のことをジェリーという。「推測よりも、観察から導かれる必然を言葉にしただけ」
「ジェリーは、」ルミはジェリーを観察した。「……十歳?」
「正解、」ジェリーは微笑む。「でも、体だけね」
「え?」ルミは言っている意味がよく分からなかった。「体だけ?」
「ジェリーは十七歳だよ、」ジェリーはシガレロの煙を吐いた。「机の上のシガレロを観察し損ねたね」
「……え?」ルミは思考停止に追いやられる。
「二重人格なの、ジェリーは」ミネコはなんでもないことのように言ってコーヒーカップをルミの前に置いた。そしてルミの対面のソファに座り、カップに口を付けている。
「にじゅうじんかく……って、なんですか?」ルミはその意味を知らなかった。
「それよりも、」ジェリーは灰皿にシガレロを押し付けて言う。「ベッキィのことっしょ?」
「え、ああ、はい、お嬢様のことです、ジェリーはどう思われますか?」
「推測は危険だと言ったよ、だから、ジェリーは推測しません」
「え、じゃあ、何をするんですか?」
「魔法を使います」
「あ、ジェリーは魔女だったんですね」
「写真を持ってきてもらえるかな?」
「写真ですか?」
ジェリーは机の引き出しから黄金のデルタのネックレスを出して指に絡めた。「ベッキィを探すには、写真が必要なんだよ、正確なイメージがジェリーの魔法には必要なんだ、出来れば一人だけで写っている写真」
「折ったり、破ったり、燃やしたりしませんか?」
「うん、必要なのはイメージだから」
「分かりました、」ルミはポケットから薄い財布を取り出し、そこに忍ばせてあったレベッカのモノクロ写真をジェリーに渡した。「絶対に、絶対に返して下さいね」
「……ああ、いつも持ってるんだ、」ジェリーは苦笑する。「大丈夫、すぐ返すから」
「この写真のお嬢様が一番可愛いって、私、思うんです、だから、すぐに返して下さいね」
「分かったから」
ジェリーは苦笑しながら、机の上にファーファルタウの地図を広げた。写真は地図の横に置かれた。そして写真の中のレベッカを凝視して、ジェリーは地図に手をかざす。ジェリーのブルーの瞳が発光している。ブロンドの髪が、風もないのに僅かに揺れている。
「ま、待って!」
とルミは突然言った。言って、レベッカの写真を回収した。
「……あ、え?」ジェリーは目を見開いてルミを見る。「何してんの?」
「そんなにお嬢様を見つめなくても」
「……何言ってんの?」
ジェリーは呆れた顔でルミを見る。ルミは写真を胸に当てて目を逸らして悶えるように言った。「だ、だって、そんな、情熱的に、見つめるから」
「そんなこと言うの、」ジェリーは思わず吹き出してしまった。「君が初めてだ、でも、この魔法を使わなきゃベッキィは見つけられないよ」
言われてルミは写真をジェリーに渡した。
「今度は邪魔しないでね、頼むよ」
「……うん、大丈夫、」ルミは頷いた。「向こうを向いています」
そしてジェリーは再度、魔法を編み始めた。
レベッカの外見の詳細なデータを魔法に編み込んでいく。
ジェリーは目を閉じて、指に絡ませたネックレスを地図の上に垂らした。
黄金のデルタが地図の上でゆらゆらと揺れる。
黄金は輝きながら、ファーファルタウのどこかにいるレベッカを探している。
デルタは何かに反応して。
デルタは円を描き始めた。
デルタの速度は次第に早まる。
エネルギアを蓄えているようだ。
そして。
デルタは強力な力でジェリーの指を引っ張り始めた。
デルタはレベッカの居場所を確かに知った。
デルタが引っ張るから、ジェリーは迂回せずに机を飛び越えた。
ブーツの底が鳴る。
ミネコとルミが座るソファの隙間を通って。
ドアへ向かう。
ドアの内側にはユナイテッド・キングダムの広域地図が貼ってあった。
デルタはそこを目指している。
つまりレベッカはファーファルタウにはいない。
こういう反応は別に初めてのことじゃない。
ただ行方不明者がファーファルタウにいなかっただけのことだ。
それじゃあ、レベッカは一体どこにいるのだろう?
ジェリーはドアの前に立つ。
デルタは磁石のような反応で地図に突き刺さった。
デルタが突き刺さった場所は。
「インヴァテス」