【第一章 ミネコ博士とジェリー氏】⑧
「あら、ムウミン、起きちゃったの?」
「……博士、」ジェリーは胡乱な目でミネコの対面に移動した。それからミネコの前に跪くような姿勢になって、十歳、いや、もっと小さい子の仕草でミネコの太ももの上に頭を乗せた。「……こ、ここはどこなの?」
「列車の中よ」
「れっしゃ?」ジェリーはカーテンを開けて、窓の外の風景を観察してから、眉を潜めて状況を窺っているルミを見て、ミネコの前に座った。「博士、これからどこに行くの?」
「インヴァテス」
「ふうん、」ジェリーは感心なさそうに頷いて、手悪さをしながら、今度はルミをチラチラと観察し始めた。おもちゃを欲しがる子供のようだとルミは思った。そしてジェリーは大きな欠伸をした。「ふあ、ふぅ」
ミネコはその愛くるしい欠伸を見て微笑んでいる。ルミはミネコの耳に口を近づけて聞く。「……あの、ミネコさん、ジェリーは一体、何を企んでいるんですか?」
「ジェリーじゃないよ、ムウミン」
「ムウミン?」ルミは首を傾げた。「なんですか、ムウミンって?」
「あれ、朝言わなかった? ジェリーは二重人格だって」
「ああ、はい、聞きました、いえ、でも、にじゅうじんかく? の意味が」
「そうだったんだ、」ミネコは首を竦めた。「簡単に説明するとね、二重人格っていうのは、一つの体に二つの人がいる状態」
「それは、博士、一体、……どういう意味ですか?」
ミネコは出来の悪い生徒を見る目をした。ミネコはルミのように頭の固い生徒が好きな人種の様である。だから、学術的な用語を用いてルミに二重人格について説明してくれた。そのおかげで理解力の乏しいルミも二重人格についてすっかり分かった。「つまり、ジェリーは二重人格なんですね」
「元の人格は七歳のムウミンなんだ、ジェリーは後から作られた人格、ムウミンが七歳のときに十四歳の人格を作ったんだ、いや、正確には、複製した」
ルミはミネコの解説を聞きながら、足をぶらぶらさせてつまらなそうに、いや、何かに緊張して俯いている様子のムウミンを視界の隅で観察していた。姿形は一緒なのに、そこにいるのはジェリーじゃない。不思議だった。「……魔法なんですか?」
「え?」ミネコは質問の意図を読んで答えてくれた。「ああ、ジェリーの場合はそうだよ、ムウミンの魔法で複製した人格」
「複製?」
「ねぇ、ムウミン」
ミネコが声を掛けると、ムウミンはミネコに反応してゆっくりと顔を向けた。「……な、なぁに、博士?」
ムウミンの声音は空気の量が少ない。
「どうして起きたの?」
その問いにムウミンは頭を左右に振って何かを思い出している風だった。そしてたった今ルミは気付いたのだが、ムウミンの髪の色はジェリーのそれと異なっていた。ブロンドからシルバに変化していた。素敵な色だ。
「じぇ、ジェリーが起こしたの」ムウミンは目を逸らした。
「なんで?」
その質問にムウミンは下を向いた。「……博士、ねぇ、博士」
「なぁに、ムウミン」
「だ、だぁれ?」ムウミンはルミを見ていた。
「ルミちゃんだよ、……ええっと、なんで紹介したらいいかな?」
ミネコは少し困っている。ルミはムウミンの隣に席を変えた。そしてムウミンの頭を触った。ルミは故郷の妹たちを思い出していた。もう長い間会っていない。幼い佇まいのムウミンのそれを重ねなかったと言えば嘘になる。「よろしくね、ムウミン」
ムウミンは最初目を伏せて、恥ずかしそうにしていたが、ルミがここ数年で作ることのなかった優しい目と目が合うと、全てを許したように、ムウミンはぬいぐるみを抱くように、ルミの体をギュウと抱き締めた。
「ああ、可愛いなぁ、もう」ルミは積極的な反応に嬉しくなった。柔らかい頬っぺたに自分のそれをくっつけて優しい匂いを嗅いだ。
「る、ルミちゃんも、」ムウミンはルミの頬を舐めた。とても積極的な愛情表現だ。「可愛い」
「あはっ、」ミネコはルミとムウミンを見て笑った。それから独り言のように呟く。「……それにしても、どうしてジェリーは」
そのおり、ムウミンはルミの腕を解いて急に立ち上がって、素早い動作で個室から出て行った。その素早さは、ムウミンの佇まいから予想できない速度だった。
「……え、ムウミン?」ルミは個室の扉を開けて左右の通路を確認したが、すでにムウミンの姿はなかった。ルミはミネコを見て判断を求めた。「ミネコさん」
ミネコは余裕のある表情で、背伸びをしていた。「まあ、ほっときなって」
「……でも、ムウミンはまだ、七歳」
「ジェリーが何か企んでいるんだ、心配ないよ」
「一体何を?」
「なんだろうね?」ミネコはククッと愉快そうな顔をした。