ファシズムと人間性の絶滅
人間という動物を大量に家畜化するためには、社会的ステータスを設定することが有効だ。実際、現代人類文明においても、圧倒的な大多数を占める大衆は、社会的なステータスを主要な価値基準として動作している。そしてそのように民衆のマインドを整えるためには、そのような集団主義から逸脱した者達を強く罰することで潜在的恐怖を埋め込むことが欠かせない。
一方で、壊れた羊達は、大多数の羊達がそのように当然のものとして従っている行動の指標について、自分達の実際の全体最適性には適合しない局所最適性だと見抜く。すなわち、物質主義的で個人主義的で利己主義的な価値観である拝金主義は、本来の人間や社会にありえた価値観の普遍ではなく一例である。公正世界仮説と進歩史観を信じて安寧を誇り、貧しく不幸な人々については自己責任論で断罪する価値観は、局所最適性にすぎず、実は家畜化のために都合が良い。
倫理的に非常に理不尽で、程度において非常に苦しい体験、まさに自分や家族の心身の死に迫られるような、を体験することによって、個人は、もはや公正世界仮説を信じられなくなる。そして、幼少期にそれが起きるほど、その人は常識的な社会的ステータスを追求する思考様式から早期に逸脱する。そういった場合、大多数の民衆とは異なる事実的な世界認識が生まれる。しかしそれは総じて、幸福な人生を破壊された結果にすぎない。極度の痛みを伴わなければ、人間は誰しも、利己主義に自動的に回収される。
現代文明において社会的ステータスとは、所有する金銭的な資産の多さを中心とした個人的な安寧であり、若い時期には学校における学業成績や学歴だ。そして、富裕は有能を有効に示唆する指標であり、学歴は知能を有効に示唆する指標であると大多数者は信じ込む。しかし実際には、人類幸福の全体最適性について合理的ではない個人的性質が金銭的に報われ、合理的ではない知的資質が学業成績に報われるのだ。なぜならそうでなければ、かくも家畜化に好都合な個人主義に人類全体が覆われる結末になるはずがないからだ。
搾取が行きすぎたとき、人類の歴史においては、利己性を超越した公益性の追求によって集団を社会運動としてまとめる英雄が現れた。しかし、技術発展は事実上一方向的であり、したがって力の格差の分布も一方向的に拡大しているため、爆弾などの高度化によって人数という因子の有効性は低下しており、歴史的な社会改革は局所的な変動にすぎなかったと言わざるをえない。非常に大きく見るなら、正義が常に敗北してきたのが人類史の実態なのだ。
理想社会を仮定するなら、そこでは、民衆幸福の全体最適性に適う仕事や人材ほど経済的に報われるべきであり、全体最適性に適う知的資質ほど知性と呼ばれて学業成績に報われるべきである。学校制度は一種の人事制度であり、本来であれば、全体最適性に合理的な人材により高い地位を与えるべきだ。しかしながら、全体最適性に適うとは、支配と搾取のためのシステムに対する破壊的な方向性のことだ。超富裕層による局所最適性の搾取のために合理化された社会システムや、そうですらなく、力そのものが自己増殖するためのシステムであって実際には誰一人にも合理的ではない秩序に対して、反旗を翻す人的資質のことだ。
しかしながら、そうであるからこそもちろん、実際に賢い人々は最も愚かな人々と見なされ、実際に仕事が有能な人々は最も仕事ができない人々だと見なされて周縁化されている。それはもう、破壊されて壊された存在としてしかありえないほどにだ。そして、こういった社会的な事実を正しく見ることができる人々は、得てして、圧倒的な大多数の大衆が、いかに社会的ステータスの価値観へと強く回収され、明確な事実を提示したり明確に論理性にまさった推論を提示したりしてやっても、その信仰から踏み出すことがないかを十分に知らない。なぜなら、悪意がなければ事実は実は自明な一方で、不幸な人々を自業自得と見なして自分達の安寧や加害を正当化したいという悪意は、人間存在において極めて強力に一般的だからだ。近代は、大衆的な邪悪さを徹底的に選好して強化したのだ。
そしてそうだから、マルクス主義的なフレームワークにおいて邪悪はファシズムの属性とされ、共同体主義を悪魔化することで個人としての庶民は生得的に倫理的に無垢だと定められた。同時に、実際には近代世界最高の権力でありつづけている超国家資本、グローバルマネーは、自由市場原理における公正性と正当な弱肉強食の結果として、非難の対象から外され人類は分割統治されている。同時にまた、大衆消費社会がグローバル経済や証券市場を通してそのような支配と搾取のシステムに極めて能動的に加担しているという第一義的な倫理的問題点を徹底して矮小化しているのだ。
すなわち、真に善であることは世間では悪と呼ばれ、真に悪であることは世間では善と呼ばれる。権力者達の私利私欲のためのものでしかなかった歴史的な社会システムから、民衆が自分達の幸福に合理的な民主主義を勝ち取ってきた経緯として人類の歴史は解釈され教育される。言わば、マルクス主義者は正義を自称しながら悪を行う傾向にあるのであって、実際により優越した倫理的価値を有しているのは、個人的利己主義を蔑む共同体主義にほかならない。そしてこの価値観は、馬鹿が誰かを見下す快楽を増加してくれないから、現代を承認している誰一人に受け入れられない。
結局、常識的な社会的ステータスが実際には何の価値もないゴミだというのは事実だ。しかし、そう認識してしまうことは家畜としての故障であり、その認識がいかに普遍的に正当であっても、大多数者と対話する言語の回路は一つも残らない。なぜなら、わずかでも世俗的な安寧を手にする人間は、必ずその獲得と所有を正当化するのでなければ、巨大社会への分配によってその所有は希釈化され、世俗的安寧はただちに消滅するからだ。正義の実践はただちに破滅と死を意味するのであり、それがまさに正義であると誰かに見なされること、すなわち社会的ステータスとして成立することは起こりえない。
では、現実には愚かで無能な人々ほど地位と安寧に報われるシステムの内部で、賢く有能な人々はどう生きるべきだろうか? それは、その知的主体または行動主体が、自分自身が賢かったり有能だったりすることを承認するところにしかありえない。全体最適性のために実際には有効な結果を残せないとしても、それに抵抗して見せる生き様のプロセス自体が、真の意味での強者による真に最大限に暴力的な行為なのだ。古来、世界中の戦士達はみな口を揃えてこう言った。義のために戦って死ぬことほど喜ばしい楽しみはないと。衆愚から見ればそれは心にもない強がりだが、実際には、人間は単に物質主義的で個人主義的で利己主義的な拝金主義の家畜ではなかった。人間性はかつてそこに実在し、そして絶滅したのである。




