プロローグ
「今日から新学期か……はぁぁぁぁぁぁ……」
俺――天城遊利は朝食をとり終えて一息つきながら、あまりの憂鬱さに今日一番の大きなため息を吐いた。
なぜ今日一番という言い方をしたかと言えば、この日は朝目が覚めてからというもの、吐いたため息を吸っては吐き、吸っては吐きと繰り返しているからだ。
するとそんな俺の様子に耐えかねてか、「ちょっと兄さん!」という怒声が放たれた。
「私だって今日から一緒の高校通うんだから、いかにも運気下がりそうななっがいため息やめてよね!」
「あー悪い悪い」
「まったく……」
ここがアニメや漫画の世界だったら、「プンプン」といった可愛らしい擬音が付けられそうな可愛げの混じった怒りを露わにするのは、俺の妹である天城美宙だ。
「兄さんだって2年生になってクラス替えもあるんだし、楽しみじゃないの?」
「生憎俺には特に同じクラスになりたいような人間はいないな」
「はぁぁ……」
今度は美宙の方がため息を吐いてしまった。そして少し考える素振りをした後、何か思いついたかのように立ち上がって言った。
「せっかくの高校生活なんだから、兄さんは青春の一つや二つするべきだよ!」
「青春ねぇ……具体的には、どうしろっていうんだ?」
「例えば友達と遊んだり、恋人を作ったり……」
友人と呼べる人間は全くいないとは言わないが片手の指に余裕で収まる程度、恋人はおろか女子との接点も特になし……。
「よし、無理だな」
「諦めるのはや!!」
我が妹ながら、ナイスなツッコミだ。それに、こんなやりとりは随分懐かしく感じる。実は俺が美宙と一緒に暮らすのはおよそ1年ぶりのことだからだ。
「さてと、雑談はこれくらいにしてそろそろ学校へ行く用意をした方がいいんじゃないか?」
「ほんとだ、もうこんな時間!」
美宙はそう言うと、慌ただしく自分の部屋へ引っ込んでいった。
10時から入学式が始まる美宙に合わせて早起きしたが、在校生の俺は午後からの登校なのでまだ時間には余裕がある。
「まあ本でも読んで時間を潰すか」
そんな独り言を呟いて、俺も自室へと向かった。
***
時刻はやがて正午をまわり、俺もぼちぼち支度を済ませ自宅を出ることにした。
1年間も毎日通えばもう慣れた、徒歩20分弱の通学路に久しぶりに立つと、何故だか少しだけ昔のことを思い出してしまった。
これはまず俺が物心つく前のこと。俺の実の両親は俺が産まれて2年が過ぎた頃、ほぼ同時期に亡くなっている。父は仕事帰りに交通事故に遭い、元々病気がちで体が弱かった母も心労が祟って後を追うように逝ってしまったらしい。
父も母も親戚付き合いはなく、父同士が会社の同僚で大学時代からの同期であり親友でもあったことで天城家夫婦に俺は引き取られることとなった。当時2歳の俺は当然その事はほとんど理解していないため、ここまでの話を俺に聞かせてくれたのもこの二人である。
またこれは余談だが、美宙はこの話を聞かされていないため、俺が血の繋がった家族でないことを知らない。
そして特に面白味のない俺の小中学生時代は飛ばすが、俺が中学校卒業を間近にし、無事に高校受験を終えたところである問題が発生した。
義父さんの海外赴任が決まり、義母さんもそれについていくことになったのだ。中学2年生である妹は嫌々ながらも当然帯同させられることになったが、進学する高校もすでに決まっていた俺はどうしても日本に残りたいと頭を下げ、最終的になんとか春から一人暮らしをすることの了承を得た。
この地に特別親しい友人も、恋人もいない俺がそうまでした理由。それは俺が今住むあの家が、両親との唯一の思い出の場所、血脈以外でただ一つ残された繋がりだったからだ。
それと、俺を実の子である美宙と分け隔てなく平等に愛情を注いでくれた義両親への、おそらく俺の人生で後にも先にも一度きりのささやかな反抗心だったようにも思う。
......と、少し感傷に浸りすぎたようだ。ふとスマホの画面を見て、このままのんびり歩いていると朝礼の時間ギリギリであることに気づく。
流石に新学期初日から遅刻して目立つことは避けたいので、早足で学校へ向かうことに......しようとして歩道橋を渡ろうとした時だった。
何やら歩道橋の階段の下で、立ち尽くす小さな影が目に入った。近づいてみれば、大きな紙袋を両手で抱えたご婦人のようで、見るからに階段を上るのが辛そうだった。
「……まじか」
ため息と一緒に、足が止まる。
先程までの思い出話のせいでややセンチメンタルな気分になっていた俺は、この場面に出会して余計なことまで思い出してしまった。
両親と半ば絶縁状態であったらしい母の祖父母については俺の存じるところではないが、唯一父方の祖母だけは俺を気にかけてくれていた。
夫を病気で早くに亡くし、自分も病気を患って、息子に先立たれた折に介護施設に入った祖母は、俺を引き取ることは難しかったが、度々俺に会いにきてくれた。
祖母はことわざや格言が好きで、俺に様々な言葉を教えてくれた。鮮明な記憶は無いが、俺も祖母の話を聞くのが好きだったように思う。
そして俺が物心ついた頃、祖母が亡くなる少し前のことだ。おそらく自らの死期を悟っていたのだろう、その日祖母が強い意志を持って俺に伝えた言葉がある。
「一日一善ってのは、誰かのためだけじゃなくて、自分のためにもなるんだよ」
別に見返りを期待したこともないが、その言葉を俺は今でも少しだけ信じている。
……まあ、実際は“毎日”なんて無理だし、自分の気が向いたときにしかやらないから、捻くれた性格の俺はこれを“一日一偽善”と呼んでいるのだが。
そして今この時、認めるのは気恥ずかしいが客観的に見れば少なからずお婆ちゃん子だった俺にとって、困っているご婦人を無視することは流儀に反するわけで……。
「すみません、それ俺が運ぶので、向こうまでご一緒しましょうか?」
「あら、助かるわぁ。ありがとうねえ」
荷物を受け取って歩道橋を渡り終え、別れ際にこちらに手を振ったご婦人の腕時計が視界の端に映る。
朝礼の時間は……完全にアウト。
この時代に遅刻の理由が「困っているお婆さんを助けてました」って、いっそ清々しいくらい恥ずかしいやつだと思われそうだ。
「……まあ、いいか」
俺が新学期初日から遅刻したところで誰も特に気にしない。
新しい担人にいきなり目を付けられるかもしれないのが少しだけ面倒だが、どうせこの先問題を起こす予定もないので、俺のような目立たない生徒はすぐに目に留まらなくなるだろう。
俺はそう割り切って、朝よりはほんの少しだけ晴れやかな面持ちで学校へと向かった。




