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次に目を覚ました時には、周りはあの世界とは全く違う薄暗い不気味な世界に包まれていた。
なんだか怖い。
なんだか喪失感を感じて、ふと背中を触ってみると、全く羽がなくなっている。
まるで元々なかったかのように消えている。
背中を触った手から温かみが感じられた。
恐る恐る胸に手を当てると、トクントクンと何かが動いている。
自分が人間になったことを実感した。
しばらくするとだんだん目が見えるようになってきていた。
私は神界できていた服をドブで満遍なく汚して傷だらけにしたような服を着ていて、隣からは大きな怒鳴り声が聞こえてくる。
「――だから!なんであんなのを拾ってきたんだい?!ただでさえ私たち2人が今日を生きていくのも大変だっていうのに!」
「いやぁ、でもな、あれはは元・神様なんだと。‘元’と言っても神だろ?どうせ飯はいらないし、よく知らんが俺たちのことを幸福にしてくれるんじゃねえか?」
怒りをあらわにした女の人の声に、あっけらかんに男の人は返答する。
「そんなわけねぇだろう!このバカ主人!」
そんな声と共にガシャンと大きな音がした。
「ぐぅぅ。」
……ん?
隣の部屋からではなく私のお腹から何か音がしたが、なんの音かもわからなかったので、とりあえずこの薄暗い部屋の中にあった少しの藁を寄せ集めてそこに座って隣の部屋の会話に聞き耳を立てていた。
「あぁ!わかったよ!じゃあアレは何にも世話をしなくていいんだね!?飯だってあげやしないし、便所だって場所も教えてやらないよ!?」
「あぁ、あぁ、もうそれでいいだろぉ。じゃあ俺は賭場に行ってくるわ。知り合いからちと金をもらえたんでな。今日こそ増やしてきてやるよ。」
女の人の怒鳴り声に聞き飽きたのか、男の人は少しめんどくさそうにそう言い放ち、それから玄関のベルがなって、ドアの閉まる音がした。
「…ちっ!本当にあいつは…」
何か文句を言いながら、その足音はこちらに近づいてくる。
光が入ってくる。
眩しい。
「はぁ…なんでこんなのを拾ってきたのやら………」
女の人は私の顔を見るなり黙ってこちらにずんずんと近づいてきた。私の顔からだをじっくり品定めするように見て、妬ましそうに言った。
「…はぁ。お前、顔がいいね。10才くらいかい?今は薄汚れちまってるけど髪の毛は細長くてサラサラだ。目ん玉も濃い緑のガラス玉が入ってるみたいで、肌も気持ち悪いくらい白くてできものやら、しわやら、シミやら…そんなのがひっとつもない。」
褒めてくれている…?
「あ、ありが…」
「だけど、私はそういう奴が嫌いなんだ!ほら…私を見てごらんよ…髪の毛はネズミのような小汚い色で、ボッサボサ。顔中にシワとシミがうじゃうじゃあって、特にこの鼻の大きな出来物は本当に醜い…目は肉に埋もれて小さいし、歯並びだってガッタガタさ!」
そう言いながら私の髪の毛を思いっきり引っ張った。
あまりの勢いに私は体ごと倒れ込んだ。それでも彼女は私の髪の毛を引っ張り続ける。
「え?!な、何?や、やめてください!」
驚きのあまりそう叫ぶと次は右頬に‘ぱー’の手で熱い衝撃が加わった。
「うるさいね!大体あんた!何神のくせして一丁前に痛がってんだよ?!ほら、やっぱり、そこらへんの奴隷市場なんぞであのバカ主人が騙されて買っただけのただの奴隷だろう!」
『痛がる』…?…《《これ》》が痛いということなのか、と学んで、女の人に必死で伝える。
「い、いいえ!か、神でも痛みというものは存在します!ただ普通の神は痛いという感情を持っていないから… 」
頭に大きな衝撃が走る。
女の人に次はじゃんけんのぐーの形で頭を殴られた。
一瞬眩暈がして、喉の奥の方から何か逆流してくるような感じがする。
「お、おぇ…」
女の人は怪訝そうな顔をしながら急に手に握っていた私の髪の毛を離して言った。
「ほらね、やっぱり。ただ殴っただけで吐きそうになるなんてただの人間じゃないの。元神様だがなんだか知ったこっちゃないけれど、本当にいい迷惑だよ。」
急に髪の毛を離されて、また地面に叩きつけえられた私は、恐怖と頭からただ震えながらその話を聞くしかできなかった。女の人は勢いよくドアを閉めた。
また、私は暗闇の中に包まれた。
その日の夜、女の人は、男の人に言っていた。
「ねぇ!アンタ!あの娘、殴ったら一丁前に痛がっていたんだよ!しかも最後には私みたいな人間を怯えた目で見つめていた!こんなのが神様のわけがあるかい!?いいや!ないね!」
男の人は、この人をこれ以上怒らせたら面倒だと言わんばかりに
「はぁ~、そうか、そうか。そういえばお前のいう通りかもしれん。チッ…今日も結局負けちまったし…こんな小汚いやつ、神様じゃぁねぇな。まぁいいじゃねぇか。別にお金を払って買ったわけじゃねぇし。お前のストレス解消用にでも使ってくれや。ほんじゃ、俺、寝るから。」
そう言った。
それから私は毎日女の人に、痛いことをされて、それの名前を知った。
パーの手で『叩く』、グーの手で『殴る』…首をぎゅうっと『絞める』…『蹴る』、『切る』、『焼く』
30日前は、お腹をずっと蹴られて、
20日前は腕をなんだか硬いもので殴られ続けて…
昨日は、なんだっけ…あ、そうだ…何か熱いものをすっと背中に当てられ続けたんだ…
天使たちに羽を取られた時よりは痛くなかったけれど、一日経っても背中がずっとズキズキする…
「ぐぅぅぅぅ」
相変わらず、なぜかお腹から音がする…
なんでだろう…なんだか喉がざらざらしているし、お腹が空っぽでなぜか辛い…
この世界に来てから、お腹は空っぽで気持ち悪いし、なぜかずっと起きていられず、いつの間にか目を閉じて意識を無くしてしまうようになっていた。
これのこと、なんていうんだっけ……
そうだ。あの女の人が前、私の首を絞めたあと、私に言っていた。
『なに、あんた。そんなところに転がって。もう無理ですって?気絶するっていうの?』
…どうやら、こうやって目を閉じてしまうことを『気絶する』というらしい。
気絶したあと、この部屋の隙間から光がさすと、私の目が開く。
その隙間から漏れ出る光は綺麗だけれど、私はその光を見て、ただ、今日は何をされるんだろう…怖いなぁ…と、思うことしかできない。
…こんな怖い思いをするんだったら、いっそ感情を無くしてしまいたいと、一瞬思ってしまった。
……だけど、私はこの宝物を無くしたくない。
神界から今まで、下界の幸せ…だけじゃなくて暗い、苦しい部分もたくさん見てきた。
そんな時、周りの神たちは、全てにおいて効率を追求して、目の前の苦しむ人々に対して何も関心を持たず、ただこの世界の進行の妨げになるような歪みだけを糸を切るかのように淡々と排除する。
私にはそんなことはできなかった。感情を持ってるからこそ人々の本当の気持ちを知って彼らを理解し、癒すことができる。
私にとっての感情とは、そういうものなのだ。