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モーニング・ブラックルーティーン

作者: 南波 晴夏

本作は文学フリマにて販売した合同誌『喫茶○○』に収録されている作品です。ぴぴ之沢ぴぴノ介さん(@ppNozw_ppNosk)と喫茶店をテーマに取り組んだ短編集となっております。


『喫茶○○』は引き続き文学フリマにて販売予定です。ご興味がございましたらぜひブースまで足を運んでいただければと思います。

サークル太陽花屋にてお待ちしております!


『喫茶○○』収録作品

・ぴぴ之沢ぴぴノ介

「10時のmorning」「Atelier 私」「ディナータイムにアッサムを」

・南波晴夏

「モーニング・ブラックルーティーン」「青い冬のロワイヤル」「恋愛感情攻防戦」

 午前五時三十分に朝焼けを見ることができるチャンスは一年に二度訪れる。

 一度目は冬から春、二度目は夏から秋。それぞれの狭間が、私の通勤時間に朝焼けを拝める唯一のときだ。だから夏も暮れかけた今日この頃、赤く染まった空を見ながらバイト先までの道のりを歩く時間が心地よい散歩のように思える。

 大学二年の頃に始めた喫茶店のバイトも、二年経った今では開店作業からひとりで任せられるようになった。元々料理は得意な方だし、カウンター席が五つとふたりがけのテーブル席が三つあるだけの小さな店なので私ひとりでも苦ではない。決まった動作をルーティーン通りにこなせば良い仕事内容も私の性分に合っていた。

 こじんまりとした喫茶店なだけあってバイトとして雇われているのは私ひとりだ。七十代くらいのマスター(正確な年齢は教えてくれないが)と二人で店を回す感覚は楽しいもので、私は始めてすぐにこの仕事が好きになった。

 薄暗い道を家から十五分ほど歩いたところで、明かりのない小さな店が見えてくる。

 鞄を漁り店の鍵を探していると、くしゃ、と何か包装の音がした。顔をしかめて、すぐにその正体に思い至る。

 銀紙に包まれた二つのチョコレート。いつかマスターがくれたものだ。

「彼にもあげなさい。コーヒーに合うから」

 そう言ってチョコレートをもらった時、私はまだ笑っていた。照れ隠しに笑いながら、「ありがとうございます」とチョコレートを受け取った。それなのに、今ではもう誰にも渡せないものになってしまった。鞄の中で忘れられているうちに、このチョコレートは『彼』という行き場を失ってしまった。

 関係を解消し、接点もなくなり、私は冷たい自由の中に転がり落ちたのだ。仕方のないことだと分かっていても、マスターの優しさを無下にしてしまったことが申し訳なく思えてくる。

 どうすることもできずにチョコレートを鞄の底に押し込み、鍵を使って裏口のドアを開ける。静まった店内を横切り、休憩室の明かりをつけ、エプロンをして服の汚れを取り除く。狭いキッチンに立ち、ゆで卵を作ったり野菜を切ったり開店準備を進めていると、あっという間に開店十分前になっている。

 表の戸を開け、看板を出して本日最初のお客さまを待つ。

 これが私のルーティーンだ。

 開店は午前七時。常連さんがちらほらと姿を見せ始め、注文を受けてコーヒーを淹れる。細かく挽いたコーヒー豆をペーパーフィルターに入れ、沸騰して少し経ったお湯をゆっくりと注ぐ。粉全体を濡らして十五秒待ち、抽出されたコーヒーが百五十ミリに届くまでドリップを続ける。慣れ親しんだ動作も、マスターに教えてもらってようやく身に付けたものだ。ドリップ以外にも、サーバーからカップにコーヒーを注ぐ時のコツや、カップの種類、選び方など、マスターから教わったことは山ほどある。

 木製のカップボードを睨み、青い線の入ったカップや華やかなピンク色のカップをお客さまの雰囲気に合わせて選ぶ。空のカップにお湯を入れて少し温め、お湯を捨てて軽くまわりを拭きとってからコーヒーを注ぐ。ひとつひとつの動作を丁寧に、注文どおりにこなしていく。そうしているうちにいつの間にか一時間経っていたようで、裏口からマスターが顔を出す。

「おはよう。今日もありがとうね」

 のんびりとした声でそう言ったマスターに、「おはようございます」と返しながら私は思わず笑顔になる。いつもおだやかで優しいマスターのことが私は好きだった。ほどよい距離感を保っていてくれる人は意外にも貴重だ。踏み込みすぎず離れすぎず、生活の一部にそっと触れるようなマスターの人柄に、私は密かに憧れていた。

 マスターはしわを寄せた笑みをこちらに向け、常連さんひとりひとりに挨拶をしてから休憩室に支度をしに行った。

 今店内にいるお客さまは五人。カウンターに六十代くらいの男性がふたり、テーブル席にスーツ姿の男性がひとりと仲睦まじい老夫婦。カウンター席の端に座る男性は眼鏡をかけて本を読み、一席空けて隣に座る男性は先程私の作ったホットサンドにかぶりついている。テーブル席のサラリーマンは何やら忙しなく手帳に書き込みをし、老夫婦は店内の静けさを壊すまいとひそひそ声で話している。各々が朝のまどろみを堪能する姿を見るのも私の楽しみのひとつだった。

 洗い終えたカップを丁寧に拭いていると、ふいに一人の男性が立ち上がる。テーブル席でコーヒーを飲んでいたスーツ姿の男性だった。

 彼は私がバイトを始めた頃、即ち二年前からの常連さんだ。平日は毎日七時に来店し、時にはおかわりを注文しながら一時間ほどコーヒーを嗜む。去り際は早く、「ごちそうさま。また来るよ」と言って退店して行くのだった。

 カップと布巾を置き、レジの前に移動する。大きな手から五〇〇円玉を受け取り、顔を上げてしっかりと彼の目を見る。

「ありがとうございました」

 頭を下げ、戸の向こうに姿が見えなくなるのを見届けて、私はようやく肩の荷が下りたような気持ちになる。キッチンに戻ると、いつものように支度を済ませたマスターに呼ばれ、好きに食事を作って休憩に入るよう言われる。ここで食べる朝食ももちろん楽しみのひとつだ。

 ぐるぐるとお腹を鳴らしながらフライパンを手に取り、火をつけてバターをしく。ぱちぱちと火の通る音を聞きながら溶き卵を流し込み、手早くヘラでかき混ぜていく。フライパンとヘラを上手く動かしながら形を整え、一分もしないうちにスクランブルエッグが完成する。少量の卵に火が通るのは驚くほど早い。

 開店前に切っておいたレタスとミニトマトを盛り付け、その上にちぎった生ハムを乗せる。オーブンで焼いておいたローブパンを皿の淵に乗せ、贅沢なモーニングプレートが完成する。あとは温かいアールグレイを添えれば私の一番好きなモーニングセットのできあがりだ。

 温かいお皿とカップを休憩室に運んでいると、「あれ、珍しい」というマスターの声が背後から聞こえた。悪いことをしたわけでもないのにぎくりと身体が硬直する。

「コーヒー飲めないんじゃなかったっけ?」

 私の手元で揺らめくコーヒーを見て、マスターが不思議そうに目を丸くする。マスターの言うとおり、私はコーヒーが苦手だ。というより、むしろ嫌いだ。店ではいつもお気に入りのアールグレイを淹れている。

 マスターが驚くのも当然だが、私は痛いところを突かれたような気持ちになってしまう。喫茶店に充満するコーヒーの香りは好きなのに、口に含むとなるとその苦味がどうしても苦しく思えてしまうのだ。

「……そうなんですけど、たまには飲んでみようかと思って」

 なるべく自然に見えるように微笑み、私はそそくさと休憩室に入る。

 客席とはまた違った静けさが心地良い。小さな丸椅子に座り、暗いような明るいような蛍光灯を見上げてふぅとため息をつく。

 小さな喫茶店のモーニングでも案外人はいるものだ。毎日のように来店する常連さんたちは、既にここでの食事やまどろみがルーティーンになっているのだろう。それはこの空間だったり料理だったりを気に入ってくれた証でもある。私自身この店とマスターの人柄に魅了されてバイトを始めたので、同じようにこの場所を愛してくれる人たちのことを想うと素直に嬉しくなる。同じものを愛しているもの同士、どこか深いところで繋がっているような気持ちになれる。

 本当は何の繋がりもなくても、名前すら知らなくても、私はそれだけで充分だった。

 赤い花柄のカップに黒一色の液体が揺らめく。立ちのぼる湯気の先をしばらく眺め、やけに重たいそれを持ち上げる。客席から聞こえるしんみりとした話し声をBGMに、空腹気味の胃に落ちていくブラックコーヒーの熱を感じる。温まる体内とは裏腹に、その苦味が背筋に冷たい拒絶を走らせる。

 この喫茶店で二年間淹れ続けてきたコーヒー。マスターには遠く及ばないが、二年前よりは上手く淹れることができるようになったコーヒー。私の中で思い出深く、それでいて最後まで好きになれなかったもの。

 大切な人の大切なものは好きになりたいと思う性質だった。苦手意識をなくし受け入れるだけでなく、同じように好きになりたかった。同じ空間で同じものを、同じ熱量で愛していたかった。その感覚の共有みたいなものが、私には身体を重ねる以上に価値のあるコミュニケーションのように思えていた。

 よりにもよってブラックコーヒーが好きだった彼のことを思い出す。

 私がどうしても好きになれないものを好むなんてずるい、と理不尽なことを考えたりもした。それでも彼の生活にはモーニングコーヒーが確かな習慣として染みついていた。同じ空間にいるにもかかわらず、同じまどろみを得られなかったことがどれだけつらかったか。

 ……けれどそんなことを、私に言う資格はないのだろう。私はきっと、彼のことすら愛せていなかった。好意を寄せられ、少しずつでいいと言う彼に甘えて考えなしに受け入れた。

 五つも年上で社会人だった彼は、いつも私の気持ちを尊重してくれた。学生の私のことなんて子どもみたいに見えていたはずなのに、私の言動を軽んじるようなことは一度だってなかった。

 良い人だった。そんなことは分かっている。そう思ったからこそ、私は彼を受け入れたのだ。そのまま彼のことを好きになれたら、どれだけ幸せだっただろう。

 客席で流れるゆったりとした音楽が忙しなくテンポを上げていくように聞こえる。無論そんな訳はないのだが、涙を零すまいとする私の心が責め立てられる。

 少々乱暴にカップを掴み、熱いコーヒーを流し込む。口内が苦味で満たされ、その不快感に泣きたくなって唇を噛む。

 まるで自傷行為だ。苦手なものを流し込むだけのそれが自傷行為なんて、人に聞かせれば笑われるような考えだが、私にとっては血を流すより苦しかった。

 罪の味だと思った。自分勝手に向き合いながら、少しも好きになれなかった私の罪。

 相変わらず震えたままの心に触れ、行き場のないため息を零す。

 何が間違っていたのだろう。そんなことを思いながら、こんな短時間で答えを出せるようなものではないとどこかで分かっている。すぐに答えが出るものなら、私は少しの温もりも失っていない。今もまだ陽のもとにいるはずだった。愛してる、と宣う口元にキスをしてやれるはずだった。

 こんな痛みすら好きになれない私を残して、着々とそれは熱を失っていく。

 冷えきって、覚めきって、私の愚かさを消費していく。



            *



 いつからかルーティーンになっていたブラックコーヒーを一気に煽る。

 空になったばかりでまだ微かに温もりを保つカップを手放し、口元を拭いて早々に席を立つ。こちらの動作に合わせ、カウンターでカップを拭いていた若いウェイトレスが手を止めてレジの前に移動する。

 この店に伝票はない。小さな店だから客の頼んだものを記憶しているのか、どこか見えないところにメモを取っているのか、通い始めて二年経った今も小さな謎は謎のままだ。

「五〇〇円になります」

 玲瓏な声が静かな店内に響く。低い位置でレジを操作する時の、伏し目がちになった目元に長い睫毛がよく見える。ぱっちりと開いた目は次の瞬間にただ一人の男を映し、一度呼吸を止める。

「ありがとうございました」

 レジカウンターを隔て、深く頭を下げる。

 それが決別の合図であることはすぐに分かった。八十度の礼は喫茶店の挨拶にしては少々かしこまりすぎている。いつもの微笑すら見せない姿勢には参ってしまった。

 結局、美しく冷ややかなその顔に微かな陽の射すさまを見ていたのだ。

 この二年間、それだけを拠り所にしていたのだ。

「ごちそうさま」

 どこか不安げに揺れる瞳に微笑みかける。いつもの決まり文句は言わなかった。

 スーツのよれを直し、迷いなくドアを開ける。

 その先に、薄闇に慣れた目には眩しいほどの光が満ちていた。

『喫茶○○』

令和六年十二月一日発行

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― 新着の感想 ―
 面白かったです。  コーヒーを淹れる、調理をする所作の描写が丁寧で(説明臭くもなく)、分かりやすかったです。  丁寧なのは女性の心理描写も同様で、彼女の苦い感情が伝わってきました。 「まるで自傷行…
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