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1986年 岡崎恭介 act-4 <きっかけ>

以来、ユウは毎日のように路地裏にやって来た。

と言っても、彼女は手相には全く興味がないようで、岡崎のそばに座り込み雑誌を読んだり、ぼんやりと道行く人を眺めたりしている。時折岡崎が話しかけてみたりするが、沈黙の方が圧倒的に長い。

そしてそんな二人に、小さなきっかけが訪れた。


その日岡崎は会社で珍しく残業をしていた。月末の決算を数人の部下と整理していた彼は、夕方から降り始めた雨が気になり、幾度となく視線を窓外に向けた。


いつもより遅い時間に会社を出た岡崎が赤坂駅に着いた時、雨は本格的に降り出していた。小走りで路地につながる角を曲がると、人気のない暗い路上に赤い傘がぽつんと転がっている。岡崎が近づくと、その傘が動いてユウが顔を出した。しゃがみこんで傘をさしていたユウは、そのままの姿勢で岡崎を見上げた。顔に雨粒がかかる。

「今日は遅かったね」

「雨の日はお休みだって前に言っただろ」

「そうだっけ」

力なく笑うユウの顔を見ていた岡崎は、ハッとして彼女の額に手をあてた。

冷たい指先に熱さが伝わる。

「熱があるじゃないか。何をやってるんだ、君は」

岡崎はユウの手を引いて立たせると、通りがかったタクシーを停めた。

「早く乗りなさい。送っていくから」

ぼんやりしているユウをタクシーに押し込むと、岡崎は彼女の自宅がある住所を聞き運転手に告げた。


走り出してしばらくするとユウは、持っていた紙袋の中から、ラッピングされた小さな包を取り出し岡崎に渡した。

「これ、渡そうと思って。お母さんに教わって作ったんだ」

ユウはそう言うと、シートに深くもたれ目を閉じた。

開封し中を覗き込むと、紅葉の葉のような形をしたクッキーが詰まっている。

よく見るとそれは人の手であった。チョコレートで丁寧に生命線や感情線も描かれている。岡崎はその一つを口に入れると、目を閉じているユウの顔を見た。

熱のためか頰が赤く上気している。長い睫毛が微かに震えているように見えた。車内には雨音に混じり、ワイパーの規則正しい音だけが大きく響いている。


渋滞の中を三十分ほど走り、タクシーは停まった。総武線が走る小さな駅の近くだ。雨は少し小降りになった。

「すぐそこだから」

ユウは岡崎に向かってそう言うと、ふらついた足取りでタクシーを降りた。

「暖かくして寝るんだぞ」

車内から半身を乗り出し岡崎が声をかけると、ユウは重たそうに右腕を上げ一軒のアパートを指差した。古い木造のそれは、まるで住人がいないかのように暗くくすんでいた。その暗闇に向かって、赤い傘がゆっくりと遠ざかって行く。

「閉めますよ、お客さん」

少し苛ついたような運転手の声で、強引にドアが閉められ、タクシーは走り出した。後部座席の岡崎は、身体をひねるようにして、リアウインドウにユウの姿を追っていたが、突然はじけるような口調で運転手に告げた。

「停めて下さい。すぐ戻ります」

岡崎はタクシーから飛び降りると、傘もささずにユウの元に走って行った。

そして、アパートの階段を上り始めていたユウを呼び止め、驚く彼女に向かって言った。

「クッキーのお礼をさせてもらえないか」

思い詰めたような岡崎の声に、ユウが小首を傾げる。

そんな二人を、バックミラー越しにうんざりとした表情で運転手が見ていた。


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