ユダヤの福音書 第十二章
イエスの条件定義について。
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1イエス・キリストの条件定義について。
2本質的に自由であられるとこしへ(え)の神であられる。
3この福音書が物語る事はイエス・キリストが飄々(ひょうひょう)としておられ、どこにでも現れる方である事。
4史実すら彼を縛る鎖ともなり得ないという事。
5つまり、実際のイエス・キリストは史実の規模よりも大きい方である事。それを「ユダヤの福音書」では、あり余る彼の歴史として、私達の主、幻想の神がお送りする、幻想のありかが彼、イエス・キリストであるとして、その幻想を解放した姿を描いている。
6福音書全体において、「聖書」の主催者と呼べる方が幻想の神である。
7幻想の神の霊感を用いてすべてにおいて書かれたのが、「聖書」という訳である。
8それは出発点である「聖書」の世界、第一世界。博物学の世界、より完全なあらなしの世界、第二世界。まったく完全な第三世界。幻想・自由・渾沌(中でも渾沌は元素の世界、より完全な科学と四大の世界である。)が織りなす世界である。
9次に安息日の主であられる事。良心が肯定するひとつの真理であり、事実である。
10つまり、律法を守る方でありながらも、律法に縛られる様な方ではない。私達はあらゆる心配を律法に持っているが、私達の主は安息日の主である。
11私達はイエス・キリストを主に持つ限りは、絶対に判断を間違えない。(逆に罪を主に持つ輩は絶対に間違える。という事である。)
12不安と戦いながらも私が判断を下す事はひとつの勝利である。
13王の王であられるイエス・キリストは不法そのものである罪と戦う任(神の神が御父であり、この方が命令する為、御子も天使達と混同されるのだ。処女懐胎は御父の意志。王の王の上に神の神があり、インマヌエルは少なくとも天使の形である。)についておられる。
14彼が罪と戦われる限り、意識的な律法、殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。という三つを少なくとも、こなしている。(少なくとも、日本国という国はこれらを憎んでいて、それらの罪から救い出す事に全力を注いでくれる事だろう。)
15つまり、犯罪者ではない立派な社会人ならば、この三つの罪は既に克服しているのだ。ならば、他の七つを克服する事も心がけ次第で出来るはずだ。(たとえ、第二世界の始祖クルミヤの世界族(第一世界の全世界人口の九十パーセント以上がそれである。)であったとしてもだ。)
16ユダヤ人の中でもガラリヤ人である事。ナザレ人のイエス・キリスト。
17すなわち、イエスがキリストである事。イエスはキリストであり、キリストはイエスである。
18神の遣わしたメシアである事。メシアを遣わしたのは神であり、それを「ユダヤの福音書」では、イエスは“私の父”と呼んでいる。
19すなわち、「クルアーン」で言うならば、神は生まず、生まれずの存在なので、これは比喩である事が分かる。
20「聖書」としてはこれは事実であり、「クルアーン」の価値基準で言わないのなら、神の子、御子なのである。
21「聖書」には事実・信仰上の事しか書いていないし、「クルアーン」には真実・真理しか書いていない。すなわち、両方ただしく、両立せざるを得ないのである。