表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ユダヤの福音書2  作者: ユダ・カーナ
2/6

ユダヤの福音書 第十二章

イエスの条件定義について。

12

1イエス・キリストの条件定義について。

2本質的に自由であられるとこしへ(え)の神であられる。

3この福音書が物語る事はイエス・キリストが飄々(ひょうひょう)としておられ、どこにでも現れる方である事。

4史実すら彼を縛る鎖ともなり得ないという事。

5つまり、実際のイエス・キリストは史実の規模よりも大きい方である事。それを「ユダヤの福音書」では、あり余る彼の歴史として、私達の主、幻想の神がお送りする、幻想のありかが彼、イエス・キリストであるとして、その幻想を解放した姿を描いている。

6福音書全体において、「聖書」の主催者(しゅさいしゃ)と呼べる方が幻想の神である。

7幻想の神の霊感を用いてすべてにおいて書かれたのが、「聖書」という訳である。

8それは出発点である「聖書」の世界、第一世界。博物学の世界、より完全なあらなしの世界、第二世界。まったく完全な第三世界。幻想・自由・渾沌(中でも渾沌は元素の世界、より完全な科学と四大の世界である。)が織りなす世界である。

9次に安息日の(しゅ)であられる事。良心が肯定するひとつの真理であり、事実である。

10つまり、律法を守る方でありながらも、律法に縛られる様な方ではない。私達はあらゆる心配を律法に持っているが、私達の主は安息日の主である。

11私達はイエス・キリストを主に持つ限りは、絶対に判断を間違えない。(逆に罪を主に持つ(やから)は絶対に間違える。という事である。)

12不安と戦いながらも私が判断を下す事はひとつの勝利である。

13王の王であられるイエス・キリストは不法そのものである罪と戦う任(神の神が御父であり、この方が命令する為、御子も天使達と混同されるのだ。処女懐胎は御父の意志。王の王の上に神の神があり、インマヌエルは少なくとも天使の形である。)についておられる。

14彼が罪と戦われる限り、意識的な律法、殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。という三つを少なくとも、こなしている。(少なくとも、日本国という国はこれらを憎んでいて、それらの罪から救い出す事に全力を注いでくれる事だろう。)

15つまり、犯罪者ではない立派な社会人ならば、この三つの罪は既に克服しているのだ。ならば、他の七つを克服する事も心がけ次第で出来るはずだ。(たとえ、第二世界の始祖クルミヤの世界族(第一世界の全世界人口の九十パーセント以上がそれである。)であったとしてもだ。)

16ユダヤ人の中でもガラリヤ人である事。ナザレ人のイエス・キリスト。

17すなわち、イエスがキリストである事。イエスはキリストであり、キリストはイエスである。

18神の遣わしたメシアである事。メシアを遣わしたのは神であり、それを「ユダヤの福音書」では、イエスは“私の父”と呼んでいる。

19すなわち、「クルアーン」で言うならば、神は生まず、生まれずの存在なので、これは比喩(ひゆ)である事が分かる。

20「聖書」としてはこれは事実であり、「クルアーン」の価値基準で言わないのなら、神の子、御子なのである。

21「聖書」には事実・信仰上の事しか書いていないし、「クルアーン」には真実・真理しか書いていない。すなわち、両方ただしく、両立せざるを得ないのである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ