悪夢
──闇の中、ちらちらと赤い炎が揺れていた。
あれは松明の炎だ。いくつもの灯火が縦横無尽に動き回り、獲物を探して彷徨っている。暗闇に蠢く無数の赤は、まるで人の血に飢えた獣の眼のようだ。なんとおぞましく、恐ろしい光景なのだろう。
林立する木々の間から聞こえてくるのは、人々の怒声と罵声だった。男性だけではなく、女性の苛立つ声も混じっている。
その中でもひときわ甲高く、まるで人の心に爪を立てて引っ掻き傷を作るような女の叫び声が、闇夜を切り裂き響き渡った。
「早く! 早くあの魔女を探し出すんだよ! まだ遠くには行っていないはずだ! 逃がしたら大変なことになるよ!」
急き立てるようなきんきん声は、聞いている者の心にも焦りを生じさせ、不安をかきたてる。人々の立てる足音がより荒々しくなった。
「逃がしてしまったら、きっとあの悪い魔女はおまえたちに報復しに来るよ! あの変な力を使って、村を焼き尽くしてしまうかもしれない! そうしたらおまえたちはお終いだ! そうならないうちにさっさと捕まえなけりゃ!」
彼らの中には、自分たちがしていることへの罪悪感を多少は抱いていた者もいただろう。女の言葉はその罪の意識を怖れへ変え、自身の行為を正当化するための理由へと変えて、巧妙に煽り立てた。
呼応する怒鳴り声が大きくなり、狂乱するような興奮状態がさらに高まっていく。
幼いティコは膝を抱え、小さく身を縮めて、茂みの中でガタガタと震えながらそれらの声を聞いていた。
子どもの自分でも、彼らに捕まったらどうなるのかという想像は容易についた。
母の髪を乱暴に掴み、引きずってどこかに連れて行こうとした人たちの顔は、まるで魔物にでもとり憑かれたかのように常軌を逸して歪んでいた。母が隙を見て自分の手を取り逃げ出していなければ、きっとあのまま母子して殺されていただろう。
なぜこんなことになってしまったのか。
母は決して「悪い魔女」などではなかった。いつだって優しく、困っている人がいればにこにこ笑いながらすぐに手を差し出す、ひたすら無垢な人だった。
母がいつも「天から授かった特別な力」と言っていたものが、今になって助けた人々により非難され、糾弾され、恐れられている。
母は何ひとつ悪いことなんてしなかった。その「特別な力」を、他人のために惜しみなく使ってあげただけだった。
それなのに、その力の恩恵をさんざん受けたはずの人々は、手の平を返すように母を容赦なく打ち据え、「裁きを受けろ、この魔女め」と憎々しげに睨みつけた。
どちらが恐ろしいのか。どちらが凶悪なのか。浅ましい嫉妬に駆られた一人の人間の虚言と讒言にあっさりと耳を傾け、彼らは母を禍と決めつけた。
「魔女」という単語ひとつで、母がこれまでやってきたことのすべてを否定し、その人間性からも目を背け、勝手な思い込みを重ねて、ありもしない罪を作り上げた。
自分たちの醜さも愚かさも直視せず。
だったら最初から、彼らを助けなければよかった。誰が困っていても、知らぬふりをしておくべきだった。今になって気づいても、もう取り返しがつかない。
──その力を自分以外の誰かのために使えば、待っているのは手酷い裏切りと、身の破滅だけなのだ。
松明の炎はもうティコのすぐ近くまで迫ってきている。恐怖が極限まで膨れ上がり、気を失ってしまいそうだ。全身から血の気が引き、ぼたぼたと滴り落ちる涙が膝を濡らす。
魔女は火炙りだと誰かが叫んでいた。だったら自分も生きたまま火に焼かれるのか。
つい昨日までは幸せだったのに。大好きな母と二人、貧しいけれど毎日笑って暮らしていたのに。
隠れている茂みがガサッと鳴った。ごつごつと骨ばった男の指が、自分の頭のすぐ上に現れる。
見つかる──とティコは息を呑んだ。
「いたぞ!」
鋭い声にぎゅっと強く目を瞑ったが、それと同時にこちらへ向かってきていた手が引っ込んだ。「あっちだ!」という大声が離れた場所から聞こえて、複数の足音がバタバタと一斉に遠ざかっていく。
周囲から人の気配がなくなると、がちがち嚙み合わない歯の根を必死に押さえつけ、ティコはよろめくように立ち上がった。
人々が向かっていったのとは反対の方向へ、覚束ない足取りで歩き出す。
涙はとめどなく流れ出るが、口を両手で塞ぎ、嗚咽が漏れそうになるのを死に物狂いで我慢した。
見つかったのは母だろう。それが判っているのに逃げるしかない自分が、なによりも悔しく、腹立たしく、情けなくてたまらなかった。
でも──「あなただけは逃げて、生き延びて」と言った母の最後の言葉を裏切ることもできない。
胸が張り裂けそうに痛かった。目の前の闇よりもなお真っ黒な絶望感が全身に広がって、息が詰まりそうだった。いっそ本当に死んでしまえればどれほど楽だろう。
ティコは一人、たった一人で、これから先を生きていかねばならない。もう誰一人信じられず、決して誰にも心を許すことなどできないこの世界で。
そんな地獄のように孤独な人生を送っても、なお生命を持続せねばならないのか。
ただ、母が他の人にはない力を生まれ持っていただけなのに。
──なにが「天から授かった特別な力」だ。
そんなものは要らない。それは母とティコからすべてを奪うだけで、何も与えてはくれなかった。人を不幸にするだけの力なんて、欲しいはずがないじゃないか!
身体の中で、今まで感じたことのない何かが大きく渦巻いていた。のたうち回って暴れ、外に出せと訴えている。脈打つたびに胸が圧迫され、激しい苦痛が間断なく襲いかかる。
ティコの内側で、正体不明の何者かが、乱れ、猛り、咆哮を上げていた。
長いこと森の中を流離って、細い川が流れている場所へと辿り着いた。
ばしゃんと水音を立てながら倒れるように川の中に半身を沈め、水を飲んではげえげえ吐いた。胃の中のものをすべて吐き出して意識を失い、目が覚めたらまたふらふらと歩き出した。
それから二日、体力を完全に使い果たすまで歩き続け、しまいには気力も失くして、ボロ布のように地面に転がった。
……もう、どうでもいい。
そんなことを思いながら虚ろな目で空を眺めていた時、ふいにどこからか声が聞こえた。
「これはこれは……魔力の気配を感じて来てみれば、こんなにも幼い子どもだったとは」
ふわりとティコを抱き上げたその老人は、立派な白い顎髭を揺らし、驚くように目を見開いていた。
***
「……今日はずいぶん、顔色が悪いな」
その日、塔の部屋にやって来たグレンは、ソファに座るティコの顔を見るなり開口一番でそう言って、眉根を寄せた。
「気分でも悪いのか?」
「いえ別に」
「この間の傷が痛むのか」
「平気です」
「化膿しているといけないから、ちょっと見せてごらん」
「大丈夫ですから──」
ティコの素っ気ない反論を無視して、包帯が巻かれた右手を確認するために、グレンの手が伸びてくる。
まだ夢の中の景色が完全には消えていない頭の中で、その長い指と、幼いティコを追い詰める武骨な指の幻影が重なった。
茂みの向こうから伸びてくる、恐ろしいけだものの爪。
ぞくりとした怖気が背中を走った。
思わず身体ごと仰け反るようにして避けたティコに、グレンが目を瞠る。その顔で我に返って、気まずい思いで視線を逸らした。
駄目だ。今日はいつものように表情も態度も取り繕えない。
ここ数日、「文化と芸術の間」で起きた一件について調べようとして、それがまったく上手く進んでいないことも理由のひとつなのだろう。
グレンや第三王子のように、名も顔もはっきりしている人物について探りを入れるのとはわけが違う。どこの誰かも判らない正体不明の相手に手を伸ばそうというのは、周囲がまったく見えない霧の中を歩いていくのに似ていた。
何にぶつかるか判らないから、神経を使うし、時折ひどく不安になる。だから久しぶりに、昔の夢まで見てしまったのだ。
こんなところを、この男の前では見せたくはなかったのに。
「……ちょっと夢見が悪くて。申し訳ないんですけど、今日は」
帰って、と続けようとしたら、その前にグレンが口を開いた。
「体調が悪いわけではないんだな?」
「──はい」
「だったら俺はこれで失礼するよ。あとで、食事と一緒に何か甘いものを届けさせる。今日はもう邪魔はしないから、ゆっくり休むといい」
普段と何も変わりない口調でそう言って、さっさと扉を開けて部屋から出て行く。気を悪くしている様子はなかったが、そもそも感情をそのまま表に出すような人間ではないので、実際のところはどうなのかよく判らなかった。
しかしどうであれ、今は一人にしてもらえるのが心底ありがたい。
バタンと扉が閉まる音を耳に入れて、ティコは深い息を吐き出した。