端緒
扉の前に立っていた警備兵は、グレンの問いに対して知らぬ存ぜぬの一点張りだった。
「ここの本はすべて外には持ち出し禁止ですので」
「だからなくなるはずがない、と。そのとおり、普通ならね。しかし実際、消えているものがある。どうしてだろうね?」
グレンは微笑を浮かべて訊ねたが、兵は露骨に嫌そうな顔をした。
「外には出ていないのですから、このホールの中にあるんでしょう。失礼ですが、探し方に問題があるのでは?」
おまえの目が節穴なんだろ、いちいちこちらの手を煩わせるんじゃない、と言いたいらしい。
兵のバカにした目つきと嘲るように吊り上がった唇が、雄弁にそう語っている。
「ここには高価な美術品も数多くあるから、入った者が出て行く時には簡単に身体検査をするよね」
「無論です」
「本を持ち出した人間はいなかった?」
「いるはずがありません」
「うっかり見過ごしたなんてことは」
「あり得ません」
「だったら検査の目をすり抜けた誰かがいるということかな」
「バカバカしい」
兵は鼻で笑った。グレンも少し笑って、声の調子を変えずに続けた。
「──じゃあ、『そもそも検査なんてされることはない誰か』だ」
その言葉に、兵の笑みがぴたりと止まる。
「自由にここを出入りし、何を持ち出そうと、警備兵が止めることも咎めることもできない誰か。違うかい? そういう相手なら、君たちは何を目にしようとも、揃って見て見ぬふりをするしかない。それとも小金でも掴まされたかな」
グレンの口元に浮かんだ薄笑いを見て、兵がカッとなったように声を荒げた。
「おい、我々を愚弄するのもいい加減にしろ! 一体何様のつもりだ! いいか、きさまが宮廷内で大きな顔をしていられるのは、ただ第三王子のお気に入りだからだということを忘れるなよ! もともときさまは宮殿に立ち入ることすら許されない、ごく下っ端の兵だったんだからな! どんな汚い手で王子に取り入ったのかは知らんが──」
兵の言葉はそこで途切れた。
グレンが素早く腰から抜いた剣の柄頭で、兵の腹部に鋭い一撃を叩き込んだからだ。
平時の城内では、警備兵は簡素な胸当てと手甲、そして脛当てくらいの防具しか装備しない。一応手に長槍を握ってはいるが、それを使う腕と才覚が持ち主になければ意味がないと、たった今露呈した。
「がは……」
たまらずに兵が身を折って呻き声を上げる。グレンは笑みを浮かべたままその様子を見て、兵の耳に自分の顔を寄せた。
「うん。以前はともかく現在の俺は第三王子のお気に入りだからね、多少の権限は与えられているんだ。警備兵を少しばかり痛めつけるのも許容範囲さ。というか君、ちょっと隙がありすぎじゃないかな。……それで、誰がここにある本を持ち出した?」
「し、知らな……」
「この部屋は毎日清掃と確認が入る。絵画一枚、蔵書一冊でも失われていたら、直ちに問題になるはずだ。自分の要求を押し通し、君たちに口止めしている誰かがいるんだろ?」
「俺は……」
「君、名前は?」
「…………」
「名前」
繰り返すグレンの口角は上がっているが、その眼には冷たく醒めきった光がある。
兵はごくりと喉仏を動かした。
「……テ、テオドル」
「ここで騒ぎ立てたら困るのは君だよ、テオドル。事実、この中で貴重品が紛失している。俺がそれを堂々と指摘してやれば、場合によっては君がその責任を負わされて、首を切られる可能性が高い。これは決して、比喩ではなく」
兵がさあっと青くなった。それをあり得ないと言い返すほど愚かではないようだ。
「別に聞いたところで何をしようと言っているんじゃない。ただ知っておきたいだけなんだ。君はこっそり俺に耳打ちして、あとは知らん顔していればいい。簡単なことだろう?」
言い聞かせるようにして囁くと、兵は迷うように何度か口を開けたり閉じたりした。
少しして、ようやく決心したのか声を出しかける。
「──……」
しかし、出てきた名前はグレンの耳には届かなかった。
兵がその言葉を出すのと同時に、扉の向こうから何かが爆発するような大きな音が響いてきたからだ。
グレンはすぐさま扉を開け放ち、室内へと踏み込んだ。
中は大変な騒ぎになっていた。誰もが立ち上がって目を瞠り、驚愕に満ちた顔をしている。わけも判らず叫んでいるような者や、「何があった!」と怒鳴り散らしている者もいて、なおさら混迷の度合いを深めているようだった。
騒ぎの元はすぐに判った。階段下の書棚に行儀よく収まっていた本の大半が床に散らばり、無残な様子を曝している。その周辺は薄っすらと白い靄のようなものが立ち込めていた。
その中で茫然と座り込んでいる娘の姿を目に入れて、グレンは勢いよく床を蹴って走り出した。
「ティコ!」
駆け寄って声をかけたが、ティコは紫色の目を大きく見開いて、ほぼ空になった書棚を凝視していた。
もう一度名を呼んで掴んだ肩を揺さぶると、ようやく何度かぱちぱちと瞬きをして、グレンを見た。
「あ……ああ、グレン、さん」
「大丈夫か。何があった?」
「何って……何が、あったんでしょうね」
まだ自失の状態から抜け出せないのか、ぼんやりとした口調でおかしなことを言っている。問い詰めようとしたグレンは、彼女が自身の右手を左手で包んでいることに気がついた。
左手の指の隙間から、じわりと赤い血が滲み出している。
その手を無理やり引き離して確認し、息を呑んだ。
右手の人差し指の爪が剝がれて出血し、おまけに爛れたように真っ赤になっていた。
激痛があるはずなのに、ティコはほとんど表情も変えていない。一時的に痛みを忘れるほど、精神的な衝撃のほうが大きかったのだろう。その顔からはすっかり血の気が引いている。
ざわざわとした騒ぎはどんどん大きくなる一方だ。周囲の目は一斉にフードの外れてしまったティコの顔に向けられていた。その中には先程やり合ったばかりの兵の姿もある。
「くそっ」
小さく舌打ちして語気荒くそう言うと、グレンはティコの身体を抱え、自分の肩に担ぎ上げた。
人だかりの中を突っ切り、あっという間に去っていく二人を、ホール内の人間たちは誰一人止めることもできず、ただ突っ立って眺めているだけだった。
***
「……で、何があったんだ」
グレンはティコを肩に担いだまま黒塔の部屋に戻ると、すぐに一人で外に飛び出していき、治療道具を抱えてまたやってきた。
血を洗い流し、消毒して、薬を塗ってから清潔な包帯を巻く。少々乱暴だが手際よく傷の手当てをしながら、器用なことに口のほうは質問攻めだ。
今になってずきずきと主張し始めた痛みに顔をしかめ、ティコは適当な受け答えをした。
「いきなり書棚から本が飛び出してきたんです」
「そんなわけあるか」
「なんだか変な機械がたくさんあったし、暴発でもしたのかも」
「階段下にはそんなものなかっただろ」
「もしかしてあそこにある本、生きてるんじゃないでしょうか」
「頭でも打ったのか混乱しているのか、どっちなんだ?」
グレンは文句を言いつつもまめまめしく手を動かし、事情説明を要求する合間に、「他に痛むところはないか」「水分を取れ」「あとで痛み止めの薬を持ってくる」という言葉を早口で挟んでくる。
何を考えているのかさっぱり判らない男だが、意外と世話焼きの面があるらしい。
白い包帯が巻かれていく自分の手に目を向けて、ティコは半分上の空だった。痛みは痛みとしてあるが、それとは別に、思考がぐるぐると頭の中を巡っている。
──術が弾かれた。
ティコが発動させた失せ物探しの魔術が、他の魔術によって妨害された。
事前にそういう術式が仕込まれていたのだろう。あの書棚を念入りに調べてみれば、どこかに魔法円が見つかるはずだ。
他者の魔術を阻む魔術は、かなり高等な技術を要する。しかもあれは、相当に強力な術だった。普通の結界であれば触れても少し痺れる程度なのに、もっと禍々しいほどの敵意、あるいは悪意があった。
ティコの注いだ魔力がごく微量で、しかもすぐに手を離したから、これくらいの怪我で済んだのだ。下手をしたらもっと致命的な深手を負っていた。
詮索する者は誰であろうと容赦はしない。向けられた魔力にはその数倍の魔力でもって攻撃する。
あそこにあったのは、そういう苛烈で独善的な意思の表明だった。
……この城内に、「本物」の魔術師がいるということか。
その人物は自分の力を公にはしていないのだろう。
マルティンのことだって、もはや半分以上「伝説」になっているくらいだ。グレンだけでなく、ティコを黒塔に閉じ込めた国王ですら、本当に魔術の存在を信じているのかは怪しい。
自分の正体を隠し、ひっそりとヴィラ城に生息している、もう一人の魔術師。
だとしたらマルティンの連絡が途絶えたのも、ティコがここにいることも、それと無関係ではないはずだ。
相手が誰なのかは判らない。この戦いはティコにとって不利な条件ばかりが揃っている。
しかしだからといって、諦めるわけにはいかなかった。マルティンは魔術の師匠であると同時に、死にかけていた幼いティコを救ってくれた恩人でもある。
──きっと突き止めてみせる。
決意も新たにぐっと唇を引き結んだティコは、
「ティコ、聞いてるか?」
「うるっさいわね、ちょっと黙ってて」
自分の態度が素に戻っていることに、ちっとも気づいていなかった。
「……おい、被っていた猫が完全に剥がれ落ちてるぞ」
と、ため息とともにグレンが呆れ顔で言った。