魔力勝負
ティコは膝を折り、床の巨大魔法円の上に両手を置いた。
その瞬間、パァッと弾けるようにして光が激しく明滅を始めた。五芒星の輝きがいっそう増し、赤い魔法円が白光に包まれる。
いきなり首に縄をつけられた獣が、抵抗して暴れ出すように。
「馬鹿ね! そんなことをしてどうしようっていうの?! 判ってるの? 自分の身体に直接描いた魔法円なんて、魔力の消耗が酷くなるだけよ! あっという間に枯れ果てるわ!」
しかしそれでも、魔法円の反応の大きさは予想外だったのか、ヴェロニカは慌てたように自分も腰を落として両手を床についた。魔力を注ぎ込むためには、その姿勢が最も効果的だ。
「そんなことをわたしが知らないとでも? だったら聞くけど、ひとつの魔法円に、二人の術者が同時に魔力を流した場合、どうなると思う?」
その問いにヴェロニカは答えを返さなかった。そんなの考えたこともない、ということか。
独学で魔術を身につけたならその努力は驚嘆に値するが、自分にとって必要なものだけを追究し、大事な基礎を疎かにしていたなら、当然それに対するツケはこういう重要な局面で廻ってくる。
「ふたつの異なる力は互いに干渉し、反発し合うことになる。そして最終的に、魔力の強いほう、大きいほうに、もう一方の魔力が吞み込まれるという現象が起きる。魔術師なのだから、正々堂々と魔力で戦わなければね」
それを聞いて、ヴェロニカは唇を大きく吊り上げた。
魔力の強く大きな者が勝者になるのなら、結果は判りきっていると確信したのだろう。なにしろ相手は引きこもりの、地味で冴えない田舎娘だ。これまで使ってきた魔術は、いずれも微々たる魔力しか必要としない単純なものばかりだった。
「だったらお望みどおり、一息で呑み込んであげるわよ!」
高笑いするヴェロニカの魔力が増大した。
ティコは両手に力を込めてそれを押し返しながら、さっきまでグレンのいた場所に視線を向ける。
ヴェロニカのほうはもうグレンの存在などすっかり忘れているらしく、そちらを気にする素振りもなかった。あれは「普通の人間」、何ができるものかと侮っているのだろう。
グレンはもうそこにはいない。気づかれないよう移動して、今は本棚の陰にいる。ヴェロニカからは死角になる位置だ。
ふらついた足でなんとか立って、彼もまたティコのほうに視線を向けている。
目が合うと、小さく頷いた。
満面の笑みだったヴェロニカは、危険信号を発するような魔法円の明滅が一向に収まらず、魔力を注ぐティコの体勢が微動だにしないことに気づくと、次第にその顔に不審さを浮かべるようになった。
そして魔法円に目をやり、はっきりと表情を強張らせた。
「なっ……?!」
そこにある文字が、少しずつ変化し始めていたからだ。
こすろうが磨こうが消えないはずの古代文字。それがぐにゃりと歪んで徐々に形を変え、生き物のようにぞろりと動き、位置を変える。
自分の構築した魔法円が、他の人間によって、まったく別のものに書き換えられていく。
その光景を目の当たりにして、彼女は驚愕した。
魔法円が乗っ取られる。
ヴェロニカははじめて取り乱し、叫ぶような甲高い声を上げた。
「こんな、こんな馬鹿な……! あり得ない! あんた一体、何をしたの?!」
「──あなたの魔法円を、『上書き』する」
両手の平に描いてある魔法円は、そのためにティコ自身が構築したものだ。
ヴェロニカの作った魔法円が書き換えられ始めたのは、それがティコの魔力に屈服しかけているという証だった。
完全に支配できれば、この獣はティコを主人と認めて従う。
ヴェロニカにもそれは判ったらしく、目がいっぱいに見開かれた。ここに至って、馬鹿にしていた娘と己との力量の差を悟り、愕然としているようだった。
「あたしの魔力より、あんたの魔力のほうが強くて大きいということ?! そんなこと、あるわけない! あたしの力はご主人様に上乗せしてもらっているんだから! ねえ、そうでしょう、ご主人様!」
縋るようにそう言って、ヴェロニカは宙の一点に視線を向けた。幼子が助けを求めるように切実で、混乱しきった瞳をしている。
暴れる獣を押さえつけて制御しようと必死になっていたティコも、顔から汗を噴き出しながらちらっとその方向に目をやり、眉をひそめた。
ヴェロニカが顔を向けているところには何もない。ただの空間があるだけだ。影すら浮かんでいない。
なのに彼女はそこに何かの姿を見て、そして救いを求めている。
この部屋には、最初から、ヴェロニカとグレン以外の存在はなかった。
空中に据えつけられている彼女の目には、何が見えているのだろう。
ティコには見えない、人ならぬものか。
あるいは、何人もの命を強引に奪い取り、人の道を踏み外した者の妄執が生み出した幻か。
「なんなのよ、あたしが何をしたっていうのよ! あたしは何も悪くない! 特別な力を持っているのに、それを自分のために使って何がいけないの?!」
特別な力。
ヴェロニカもまた、その言葉を使った。
「……っ」
ぐらりと気持ちが乱れた。その途端、変化し続けていた文字の動きがぴたりと止まる。
ティコは歯噛みして意識を引き戻した。
集中が逸れるとそれだけ魔力の放出が弱まる。現在、ふたつの力はまるで綱引きをしているように、互いに拮抗した状態だ。少しでも気を許せば、この獣はすぐさまティコに襲いかかり魔力を食い尽くそうとするだろう。
そうなったらもう、手がつけられない。
その時、ドン! という音がして、壁際にあった本棚が大きく揺れた。
重量のありそうな分厚い本がドサドサと落ち、その直撃を受けそうになったヴェロニカが悲鳴を上げて、自分を庇うため魔法円から片手を離した。
止まっていた上書きが再開した。ティコは小さく息をつく。
「邪魔するんじゃないわよ、人間!」
急いで手を戻し、ヴェロニカが苛立たしげに怒鳴る。その表情には最初の時の余裕はもうない。
本棚を蹴飛ばしたことでまた苦痛が跳ね返ってきたグレンは胸を押さえて座り込んだが、ざまみろ、とでも言いたげに口角を上げていた。
「知らないでしょう、グレンはこう見えて、意外と負けず嫌いで大人げなくてしつこい性格なんだから」
ティコがそう言うと、グレンは口を動かして何かを唸った。苦しくて声が出ないようだが、文句を言っているらしい。
「『文化と芸術の間』では、わたしだって痛かった。一方的に生命を奪い取られた人たち、残された人たちは、もっと苦しい思いをした。──あなたはそれを知るべきだった」
きっぱりと言い放ってから、ティコは下を向いた。
顔を俯かせると同時に、ぼとぼとと大粒の汗が床に滴り落ちる。自分の表情が苦しげに歪んでいることを、ヴェロニカに気づかれたくはない。
強気に振る舞っているのはグレンだけではなく、ティコもまた同様だ。
一度に大量の魔力を解放したせいで、目が眩み始めている。両手はさっきから大きく震えっぱなしだ。
早く決着をつけなければ、いずれ遠からず、ティコの生命エネルギーのほうが先に枯渇する。
──ティコ、おまえは驚くほど膨大な魔力を体内に秘めているけれど、だからこそ余計に気をつけなければいけないよ。
魔術を習い始めた頃、マルティンはしつこいくらいそう忠告した。
小さな身体に収まりきらないほどの大きすぎる魔力を上手にコントロールできず、しょっちゅう動けなくなるくらい疲弊してしまった当時のティコを心配していたのだろう。
使う時は少しずつ、ゆっくりと。決して体内にある魔力を一気に放出するような真似をしてはいけない。
ティコの魔力量は半端なことでは尽きたりしないから、術が止まらず、生命エネルギーばかりがどんどん流出していくことになるよ。
……ティコのそれは残念ながら人並みだ。なくなってしまえば、おまえは死ぬことになるのだからね。
ごめんなさい、師匠。言いつけを破ります。