外の世界へ
「ミレナ・ルーラントという名前を覚えているか?」
グレンの問いに、ヴェロニカは彼の顎を撫でる手を止め、首を傾げた。
「ミレナ? さあ……」
とぼけているわけではないらしい。この女は本当に、その名を覚えていないのだ。顔も覚えていないかもしれない。
いやきっと、これまで贄にしてきた者すべて──グレンの姉も、哀れな子どもたちも、どんな名前でどんな顔をしていたかなんて、これっぽっちも記憶に残していないに違いない。
この七年の間、グレンは姉を忘れたことなど、ただの一日もなかったのに。
穏やかに笑う、優しい人だった。両親から疎まれるグレンのたった一人の味方でいてくれた。
自分自身よりも大事に思っていた彼女の生命も人生も、呆気なく奪われてしまった。あんなにも、可哀想な姿で。
グレンの腹の中で、黒い感情がとぐろを巻いて、鎌首を上げた。
「……あんたが七年前、侍女として召し上げた女性だ。まだ十九歳になったばかりの、若い娘だった」
「侍女……」
考えるように呟いて、ヴェロニカは突然、弾けるような笑い声を上げた。
「ああ、あの娘ね! 思い出したわ、そういえばそんな名前だったかしら。当時はわたくしも術を試行錯誤していた途中で、あの子はちょうどいい実験台だったのよ。でもあの件で、やっぱり使うなら子どものほうがいいと思ったわ。だって身体が大きいと、死体の後始末が面倒なんですもの。ちょっとした騒ぎにもなってしまったし……あら、じゃああなたは、あの娘の身内? 年齢からして、姉弟かしら。あの子もねえ、きっと喜んでいるわよ。だって特別美しくもない、若さだけが取り柄の女なんて、年を取ったらみっともなくなるばかりで、生きている価値もなくなるんだから──」
ひゅっと空気を裂いて、グレンが剣を横薙ぎに払う。
ヴェロニカは素早く後方に飛び退り、閃く刃を避けた。
その顔には、楽しそうな笑みが乗ったままだ。人間味のない作り物じみたその笑顔を見て、グレンの背中にぞくりとした悪寒が走った。
「愚かだこと。姉の復讐のために、のこのことここまでやって来たというわけ?」
赤い唇から出る声音には、嘲笑の響きがある。
グレンはひとつ息を吐いて、気持ちを落ち着かせた。
ティコの話では、魔術は魔法円がなければ発動させられないはず。だったら、そんなものを手にする隙を与えずに攻撃すればいいだけだ。
「そうだな、長い間そればかり考えていたよ」
姉を殺した犯人を突き止めて、その死の理由を明らかにした後は、必ず自分の手でそいつの息の根を止めてやろうと決めていた。
それがグレンの人生の唯一の目的で、果たした後のことは何も考えないようにしていた。
死んでもいいし、ただ命令に従うだけの「生きた死人」になってもいい。自分の生には、なんの未練も興味もなかった。
人にも物にも決して執着しなかったのは、グレンには「その先」が存在していなかったからだ。
それが、どこでどうして狂ってしまったのか。
「──だがここに来たのは、復讐のためじゃなく、ティコの未来を守るためだ。あの娘に手出しはさせない。これ以上、犠牲も出させない。あんたには今ここで消えてもらう」
剣先を突きつけてそう言うと、ヴェロニカはまた笑った。可笑しくてたまらない、というように白い喉を仰け反らせて哄笑する。
グレンは表情を変えず、床を蹴って大きく一歩を踏み出した。
振りかぶった剣が、もう少しでヴェロニカに届く──というところで。
グレンの動きがぴたりと止まった。
自分の意志ではなかった。腕が中途半端なところで固まり、踏み出した足が縫い止められたかのように動かない。
力を振り絞っても、目には見えない何かがグレンの身体を絡み取っていて、抗えない。
噴き出した汗が顔を濡らした。
「だから愚かだというのよ。ねえグレン、なぜわたくしが自ら黒塔に足を運ばなかったと思う? せっかく見つけたマルティンの弟子、本当ならもっと早く自分のものにしてしまいたかったのに」
ヴェロニカの笑いが歪んだ。
「それはね、魔術師は自分を守るため、あらゆる仕掛けを身の回りに施すのが常識だからよ。魔術師の元を無警戒に訪れるのは、蜘蛛の巣に自ら飛び込んでいくようなもの。いくら貧相な小娘とはいえ、相手はあのマルティンの弟子よ、何をしてくるか判ったものじゃないでしょう? だからねえ、わたくし慎重に、あの子を外側から弱らせて追い詰めて、死にそうになったところで、確実に手に入れるつもりだったの。途中でランベルト王子が介入してこなければ、とっくにそうなっていたわ。あの王子は本当に目障りね」
そこで、楽しそうにくすくす笑った。
「ティコという子も魔術師だから、そう簡単にはこちらの守備範囲内に入らなかったでしょうね。魔術師を騙るあの腹立たしい男を目の前で殺し、挑発してやっても、なお用心深かった。でも、あなたの考えなしな行動のおかげで、手間が省けたわ。これであの娘は、すぐにでもここに来ざるを得ない。……だってモタモタしてると、あなた、死んでしまうんですもの。ねえ?」
どうやら今この場で、なんらかの魔術が発動しているらしい。グレンは歯を食いしばり、目だけを動かして、術の元になっているものを探した。
ヴェロニカはただそこに立っているだけだ。ティコのように魔法円に手や指を置いている様子はない。ティコとは発動条件が違うということか。いや……
ヴェロニカと自分の足元に視線をやった瞬間、閃くように悟った。
下に敷かれているのは円形の敷物。そうか、そういうことか。
魔術師はあらゆる仕掛けを身の回りに施すのが常識だって? だったら黒塔のあの部屋にも、これと同じように、何かの細工がしてあったということだろうか。ティコはいつもソファに大人しく座ってグレンを出迎えるだけだったが。
しかし考えてみたら、毎回毎回決まって同じ位置にいるというのもおかしな話だ。それに彼女は座りながら、小さな丸テーブルを気にする素振りをよく見せていた。
ひょっとしたら、あの天板の裏に、魔法円が仕込んであったか。
「ああ、くそ……」
身体は動かないのに、忌々しげな声は口から滑り落ちた。それとともに、無性に笑いの発作が込み上げてくる。
まったく、なんて抜け目のない娘なのだろう。
ちっとも弱々しくなんてない。一筋縄ではいかない。その手強さが腹立たしくも楽しい。
くくっと喉の奥で笑うグレンを見て、ヴェロニカが唇を吊り上げた。
「あら、どうしたの? 怒りと恐怖でどうにかなっちゃった? それとも、すっかり観念したということかしら。でもどちらにしろ、無事に返してはあげられないけど。あなた可愛い顔してるから、わたくしの新しいお人形さんにしてあげてもよくてよ」
「可愛い? 俺が?」
訊ねると、ヴェロニカが笑みを深めて「ええ」と答えた。とろけるように甘く、魅力的な声だ。その視線は舐めるようにグレンの上から下へと動いている。
グレンはふっと笑った。まっすぐ彼女を見返し、きっぱりと言う。
「俺よりもティコのほうがよほど可愛いと思うがな。それに引き換え、あんたはこの世の中の誰よりも、穢れに満ちて、醜悪だ」
ヴェロニカの顔から笑みが消えた。
***
「それでグレンは、ヴェロニカのところに?」
急くように訊ねると、ランベルトは苛つくほどにのんびりと「そうだろうね」と肯定した。
「馬鹿なことを……」
ティコは額に手を当てて呻いた。
グレンはまだ魔術がどういうものか理解していない。なんの準備もなく向かったところで、みすみす罠の中に入り込むようなものだ。
「礼拝堂だろう? グレンがさ、自分が戻らなかったら、外からあの建物に火を点けて燃やしてくれって……あ、これは口止めされていたんだった」
まったく隠すつもりのない言い方をして、ランベルトは白々しく口元に手を当てた。
ティコの顔からますます血が抜ける。
それでグレンはランベルトに別れの挨拶をし、ティコの足止めを頼んだのか。
これが最後だからと。
グレンはここに戻るつもりがない。ヴェロニカとの相討ちを狙っているのか、少なくとも、これ以上の被害が出るのを食い止めようとしている。自らを犠牲にしても。
……そうなったらもう、二度と会えない。
青い顔をしたティコの唇から、「行かなきゃ」と小さな呟きが滑り落ちた。
それを耳にして、ランベルトが面白そうに首を傾げ、唇を上げる。
「行くのかい? 礼拝堂に? なんでまた? この黒塔に引きこもっていれば楽じゃないか。大事なことは黙って、余計なことはしない、確かにそれがいちばん賢明さ。何もしなければ自分が傷つくことはないんだから」
辛辣な言葉が刃になってティコの胸を抉る。事実なだけに、なおさら鋭利だった。
「君が行けば、状況は変わるかもしれない。でもその行為は、君にそれだけの力がある、と証明することでもあるよ。そうしたら君は今後、他の連中の思惑に巻き込まれていく可能性が高い。君はそれが判っていて、自らその危険を冒すというのかい? 今までずっとそれを避けていたのに?」
「わたしは……」
そうだ、ティコはいつもそうだった。森の中に、そしてこの黒塔の中に閉じこもったまま、何の行動も起こせず事態の推移をただ見ていただけ。
マルティンの連絡が途絶えてから半年の間、自ら森を出て捜しに行くこともしなかった。
それはすべて、ティコが臆病だったからだ。外の世界に出て行くこと、人を信じることが怖かったからだ。そして結局何もしないまま、何も得られず、何かを失い、後悔することを繰り返す。
ティコはずっと、恐怖心から頑なに自分の目を閉じ続け、事実を見据える勇気も出せない、弱く頭でっかちの子どもでしかなかった。
ぐっと拳を握りしめ、うな垂れる。
でも……グレンは。
「──ヴェロニカのところへ行く」
顔を上げ、決意を込めて今度こそはっきりと口にした。唇を引き結び、出したその答えを確認するように大きく頷く。
それでもグレンは、こんなティコを信じてくれたのだ。
だったらティコは、その信頼に応えられる自分でありたい。
「誰かのためじゃない。今の自分がそうしたいから。これから先に何があっても、この道を選ばないときっと後悔すると思うから。わたしはわたしのために行く」
ランベルトはティコを見返して目を細め、彼らしくもない柔らかい声で言った。
「そう。それじゃ、行っておいで」