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グレン・ルーラント



 濡れて額に張りつく前髪を手でかき上げ、グレンはぽたぽたと全身から水を滴らせながら、その建物の奥にある小さな扉を開けた。

 カツ、カツという靴音を反響させ、細い階段を下りていく。

 石造りの屋内は空気がひんやりとして、どこか黴臭かった。そしてなんともいえない陰鬱さを帯びている。しかしこの場所を考えれば、それも当然というものだろう。


 ──なんという皮肉だ、礼拝堂とは。


 上階は荘厳で神聖な神への祈りの場だが、ひとたび地下へと下りれば、そこは埋葬まで死者を安置するための、静謐な永眠の場となっている。

 壁に付けられた小さな燭台の炎が照らしている地下室内は、黒い棺が左右に数基ずつ分かれて置かれているだけの、殺風景な眺めだった。

 ヴィラ城内で死人が出た場合、通常はまずこの棺の中に納められ、それから墓地へと運ばれる。王族や身分の高い貴族の場合はまた異なるが、兵や使用人が死んだだけなら特に誰も注意を払わない。

 その棺の中に、小さな()()()()()()が一緒に詰め込まれていたとしても、見咎められることはなかっただろう。

 恰好の隠し場所だ。この悪事に加担して、なおかつ口を拭っている人間は、聖職者の中にもいるに違いない。

 グレンは棺の間を通り抜け、その向こうの黒い扉へとまっすぐに進んだ。


 左手で取っ手を掴み、ノックもせずに大きく開ける。


 部屋の中は狭かった。そもそもここは死者の記録を保管したり、細々とした作業や手続きをするための場所だ。誰だってこんなところ、頼まれもしないのにわざわざ近寄りたくはない。

 その部屋の中に、数多の書物や豪華な家具を持ち込んで、優雅に寛いでいる人間がいるなんて、きっと国王ですら想像もしていないだろう。

 ましてやその人物が、自分の寵愛している愛人であるなんて。


「……あら、カエルの次は、王子の犬が来たというわけ? いつになったら当人が来てくれるのかしら。逃げるのだけは上手なんて、困った子。そんなところまで師匠そっくり」


 凝った装飾の椅子から立ち上がり、ヴェロニカが微笑んだ。

 一歩ずつ近づいてくるにつれ、甘い香りが鼻をつく。

 こんな場所でも、彼女は華美なドレスをまとい、髪を整え、しっかりと化粧を施していた。余裕があるというよりも、そうやって飾り立てることこそが、この人物のなによりの自己主張であるように思えた。

 部屋の中央には、毛先の長い上等な円形の織物が敷かれている。

 四方には立派な燭台。優美な曲線を描く猫脚のテーブルの上に置かれているのは、古ぼけた小冊子だけだった。

 ここにいるのはヴェロニカのみで、他に人はいない。それなのに、どういうわけか妙な圧迫感がある。

 グレンは素早く視線を一巡させてから、ヴェロニカに向かって穏やかな笑みを返した。


「こんばんは、今日は素晴らしく良い晩ですね。突然の無粋な訪問をお詫びします」

「ええ、わたくしも嵐の夜は大好きよ。月も星もない闇はすべての姿を隠し、雨や雷はすべての音を消してしまうから。……あらあら、ここまで来るために、確かに無粋な真似をしたようね?」


 ヴェロニカの目線が、抜き身の剣を握ったグレンの右手に移る。

 蝋燭の炎を反射してきらりと光る白刃には、透明な雨水と一緒に赤い血が混じって付着していた。


「殺してはいませんよ。あまりにも聞き分けがないので、強制的に退いてもらっただけです。あんな連中に、せっかくの逢瀬を邪魔されたらかなわない」


 建物の外に立っていた男は二人いたが、どちらも言葉を発することなく、いきなりグレンに攻撃をしかけてきた。

 誰かを確認することも、理由を訊ねることもしなかったのは、そう命令されていたからなのだろう。彼らは揃って呆けた顔つきをしていたが、向けてくる力には一切の手加減がなかった。

 何かに憑かれたようなその表情も、思考能力を失ったような無反応さも、城下町でマリエを攫った男とそっくりだった。


「わたくしのお人形を壊してくれたのは、これで二回目ね。使い捨てとはいえ、作るのは結構な手間なのに。こんなことなら、あなたもさっさと心を抜いておくべきだったわ」


 ヴェロニカの白く細い手がするりと動いて伸びてくる。

 グレンはそれを避けることなく、まだ濡れている頬を触れられるに任せた。


「そんなにわたくしに会いたかった? わたくし、気づいていてよ。ランベルト王子の傍らで、あなたがいつもわたくしのほうをじっと見つめていたことを」


 しっとりと潤った柔い指の腹が、頬を滑るように撫で、顎へと移動する。外の雨で冷え切ったグレンに負けず劣らず、その手は氷のようにひんやりしていた。

 どこか淫靡さの滲む指の動きと、妖艶に細められた黒い瞳を受け止めて、グレンは口の端を上げた。


「──そうですね。俺はずっと長いこと、あなたに近づきたいと願っていた。それはもう、焦がれるほどに」



          ***



 目を開けた時、ティコはベッドで横になっていた。

 シーツはきちんと下に敷かれ、薄い布団が身体を覆っている。それを認識してからぱちりとひとつ瞬きをして、跳ね上がるようにがばっと上体を起こした。


「え……」


 周囲はまだ暗かった。雷の音はもう止んだようだが、雨は依然として窓ガラスを打ちつけている。

 気を失っていたのは、そんなに長い時間ではないらしい。

 今ひとつ状況が掴めなかった。失神してしまったこととその経緯は覚えているが、それ以降が判らない。

 ラデク……と思い出して、胸がまた苦しくなった。息苦しさはなくなったのに、痛みのほうは一向に消えてくれない。

 大事な使い魔をあんな目に遭わせたのは、間違いなくティコの軽率さと思い上がりが原因だ。

 だがその時、室内に自分以外の人の気配があることに気づいた。はっとして居ずまいを正し、そちらに顔を向ける。


「……グレン?」


 そろりと囁くような声を出すと、こちらに背を向けてソファに座っていた人物がゆっくりと振り返った。

 ランプの仄かな灯りでもその顔はちゃんと見て取れて、驚きで身体を硬直させる。


「やあ、ようやくお目覚めかい?」


 そこにいたのはランベルト王子だった。


「な……なんでここに?」


 ティコは唖然とした。

 どうしてこの男は、毎回こちらの意表をつく登場の仕方をするのだろう。彼に対するティコの好感度はすでに地を這うくらい低いので、今さら怒るのも馬鹿馬鹿しくなってくるくらいだが、それでもこの顔を見ると嫌な予感しかしない。


「グレンが挨拶ついでに君の足止めを頼みに来たんだよ。主人をこき使うとは、いい度胸をしてるよねえ。でもこれが最後だからとやけに真剣な顔をするからさ、仕方なく足を運んだというわけだ」


 ランベルトは肩を竦めてそう言ったが、ティコは何から何までまったく判らず、混乱するばかりだ。挨拶? 足止め?

 これが最後──って、何が?


「グレンはどこに行ったの」


 布団を跳ね除けベッドから出ると同時に、詰問するような声が口から飛び出した。

 緊張が足元からじわじわと迫ってくるようだった。顔が板のように強張っている。

 ランベルトの返事を聞く前から鼓動が大きく暴れていた。さっき感じた胸の痛みが、さらに息もできないほどの激しさを伴ってぶり返す。


「それは君のほうがよく知っているんだろう? 僕はグレンから詳しく事情を聞いていないんだ。あいつはただ、『やっと真実が判った』と言っていただけだし」

「真実……」


 ティコは呟くようにその言葉を繰り返した。

 グレンは何に対して、そう言ったのだろう。魔術について? ティコとマルティンの関係について? 今までに起こった事件について? それとも……


「なにしろグレンは、七年前からずっとそれだけを追い求めていたからね」

「な、七年前?」


 思いもよらない方向へ向かっていく話に、ティコはひたすら茫然とするばかりだった。

 七年前──というと、グレンはまだ十代の頃だ。


「君は聞いていないかな? グレンには二歳違いの姉がいてね」

「姉……」


 その人についてなら、グレンの口から一度だけぽろりと出たことがある。城下町で、子ども時代の話をした時に。

 家にいるのが好きではなかった幼いグレンをよく外に連れ出して、遊んでくれたという姉。


「グレンは、まあ貴族の間ではよくある話なんだけど、母親が夫以外の男との間に作った子とされていて」


 ランベルトはまるで天気の話でもするかのような調子で言った。


「実際はどうか判らないんだけどね、母親は否定していたし。ただ、父親を含め、周りはほとんど疑っていたようだ。でもだからといって、さすがに証拠もないのに家を追い出すのは体面上できなくて、グレンはルーラント家の長男として育てられた。他に男児が生まれなかったから、そうせざるを得なかったという事情もある。だけど厄介なことに、グレンは父親にも母親にも似ていなくて、ほとんど空気のように扱われていたらしい。父親からは徹底して無視され、母親からも邪険にされて」


 ティコはぐっと奥歯を噛みしめた。

 そんな家庭環境の中で、姉一人が、グレンに愛情を向けてくれた。

 時に遊び、時に叱り。

 自分を構ってくれるのは身近では姉だけだったと、懐かしそうに語っていたあの言葉には、どれほどの重さが含まれていたのだろう。


「唯一自分を大事にしてくれた姉がヴィラ城の高貴な女性の侍女になることが決まった時、グレンも一緒に喜んだそうだよ。なにしろ貴族とはいえ底辺のほうにいた彼らの身分からすると、驚くほどの大出世だ。いずれ裕福な男の目に止まって夫人に収まり、一生余裕のある暮らしをすることも夢じゃない。姉に幸せな人生が訪れることを祈りながら、グレンは彼女を送り出した」



 しかしその祈りは、あっという間に打ち砕かれることになる。

 家を出てひと月後、グレンの姉は、無残な遺体となって発見されたのだ。



「誰がどう見ても尋常な状態じゃなかった。どこにも傷はない。毒の痕跡もない。もちろん病気でもない。目は恐怖に見開かれ、口は叫ぶように大きく開けられたまま、肉体だけが朽ちていた。ミイラ化していたんだ。たったひと月という短期間で、しかも亡骸は城下町を囲む周壁の向こう、堀の中に打ち捨てられていたのにね。調べてみたら、内臓はすべて液化して流出し、体内の水分という水分が蒸発したように失われていた」


 ランベルトの口調は淡々としている。

 ティコは身震いが止まらない。


「事故とも自殺とも殺人とも、判断できなかった。そもそも、どうすればそんな死に方ができるのか、そこからして判らなかった。結局、死因は不明のまま彼女は葬られ、家族も友人たちもそれで諦めようとしていた。でもグレンはただ一人、納得しなかったし、諦めもしなかった。なぜ姉がそんな死に方をしなければならなかったのか、絶対に突き止めると言い張った。……だけどあいつは当時、一介の兵卒でしかなかったからね。高位貴族のことを調べるどころか、宮殿に入ることも難しい。それで僕のところに来たんだ」


 どうしても真実を知りたい。そのための協力を頼みたい。引き換えに、どんな命令にも従うし、自分の生命もこれからの人生もすべて渡す。グレン・ルーラントという人間を、どのように使っても構わないから。

 手をつき、頭を地面に擦りつけて、グレンは自分自身を差し出した。

 外を歩いていた王子の目の前に突然飛び出してきて嘆願するという、普通なら死罪になってもおかしくない命知らずの暴挙をランベルトは気に入って、彼を貰い受けることにしたのだという。

 突然第三王子の側仕えとして取り立てられたグレンに、周囲の目は厳しかった。彼は家の中だけでなく、この城でも孤立していたことになる。仲間も友人も拒絶し、向けられる悪意と嘲笑をやり過ごして、グレンはひたすらランベルトに仕え続けた。

 ただひとつの目的のために。


「僕の側近という地位を手に入れて、宮殿内をある程度自由に動けることができるようになり、グレンはずっと機会を窺っていた。なにしろ相手は迂闊に近寄れないところにいる人物だからね。おまけに用心深く、警戒心も強い。声をかけることも難しくて、何度も歯噛みしていたよ」


 ティコは小刻みに揺れる手を口元に持っていき、息を吸い込んだ。

 ぐるぐると思考が巡って、目が廻りそうだ。

 そんな、じゃあ──


「それが、ヴェロニカ……?」


 混乱と動揺で、掠れるような小声しか出なかったが、ランベルトはこともなげに頷いた。


「そのとおり。国王の愛人であり、宮廷内で最も権力を握っている女だ。七年前、グレンの姉はヴェロニカの侍女に選ばれ、宮殿に出仕した途端に死んだ。すべてを知っているのはあの女をおいて他にない。グレンはこの七年の間、いつも同じことを考えていたよ。姉はどうして死んだのか。なぜあんな死に方をしたのか。誰が、どういう理由で、どんな手段で、姉を殺したのか」


 頭のてっぺんから、一気に血の気が引いた。グレンの叫びが耳に蘇る。

 ──そうか、そういうことだったのか!

 その解答のすべてを与え、彼の背中を押したのは、ティコに他ならなかった。





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