禁忌の術
ティコは目線を下げ、床に積まれた紙束をじっと見据えた。
その可能性を思いついてから、構築し続けた新たな魔法円だ。
他人の生命エネルギーを吸収し、自分の代替エネルギーとして転化するなんて、考えれば考えるほどあまりに忌まわしく恐ろしく、円を描く手もずっと震えていた。
もしもそんなことが実現できたのなら、術者はほぼ何の痛手もなく望みを叶えられる。
命の尊厳が理解できない者、自分以外の犠牲に良心の呵責を覚えない者ほど、他人の生を踏み台にして魔術を行使し、大きな利益を得られることになるだろう。
それはまごうことなく、邪法だ。
「……そんなこと、本当にできるのか?」
グレンに抑えた声音で訊ねられ、ティコは曖昧に首を傾げた。
「理論上ではできるかもしれない、としか。もしもできたとしても、大量の魔力が必要になる。……でも、そう考えると、城下町での度重なる誘拐騒動も納得がいくと思わない?」
グレンは最初、その意味が判らなかったらしい。
眉を寄せてティコの顔を見ていたが、徐々に表情に理解の色が広がって、目が大きく見開かれていった。口元に自分の拳を持っていく。
押し殺すような声が絞り出された。
「──攫われた子どもたちは、その生命エネルギーの代替品として使われた……?」
「老人よりも若者のほうが、生命エネルギーは横溢なの。そして、男よりも女」
女性は、新しい命を誕生させる身体を持っているからだ。若い女性ではなく子どもを狙ったのは、そのほうが攫いやすかったからなのか、あるいは他に理由があるのか。
そもそも、数年も前から誘拐が続き、住人たちも警戒しているのに、次から次へと被害が絶えないというのが異常なことなのだ。子どもを攫う過程でも、なんらかの魔術が働いているとしか思えない。
「生命エネルギーとやらを無理やり奪われたら、その人間はどうなる?」
グレンのその問いに、ティコは目を伏せた。
「……まず間違いなく、生きてはいられない。人体はほぼ水分でできているから、はじめはそこから消失していくことになると思う。肉体が干からびたようになり、それとともに熱を奪われ、内臓の動きが止まり……」
重い口調で続けようとしたところで、ティコの舌が止まった。
すぐ前にいるグレンが、真っ青になっていたからだ。
凍りついたかのように、身動きひとつせず、虚空を凝視している。彼の周囲だけが時間を止めてしまったように見えた。
その瞳はぎらぎらと燃えるような異様な光を放っている。
一度短い息を吐き出したかと思うと、グレンは突然、頭を掻きむしるように髪の中に自分の手を突っ込み、まるで倒れ込むような動きで顔を伏せた。
「ああ、くそっ……そうか! そういうことだったのか!」
低く呻くような、悲痛な声だった。
床に打ちつけるように振り下ろされた拳は、白い線が浮き出るほどに強く握りしめられている。
「グ……グレン?」
その語調の激しさに、ティコは戸惑った。
いつもあれだけ冷静に物事を眺めるグレンが、ここまで衝撃を受けるとは、正直、予想外だった。ティコはまだ彼のことを見誤っていたらしい。
もともとグレンは魔術というものに否定的だったのだし、こんな話に嫌悪の念が湧くのも、受け入れられないのも当然のことだ。
これを魔術というのなら、人々が怖れるのも無理はないと、ティコでさえ思う。
……一体何のために、この世に魔力などというものが存在するのか。
「気分の悪いことを聞かせて、ごめんなさい」
肩を落としてティコは謝ったが、グレンは顔を下に向けて、ぴくりともしなかった。
何かに耐えているかのように拳が握られたまま、呼吸音すら聞こえない。
息詰まるような無言の時間がしばらく過ぎてから、は、と軽く息を吐き、ようやくグレンが顔を上げた。
顔色はよくないが、表情はいつもの彼のものだ。
いや──どういうわけか、その目はいつもよりもずっと澄んでいるように見える。
嵐の後、晴れ上がった青空のように。
「すまない、ティコ」
グレンは微笑を浮かべた。その顔つきも、口調も、落ち着いている。
「教えてくれてありがとう。ようやく、ずっと疑問に思っていたことが解けて、すっきりした」
「え……あ、うん……?」
よく判らないながら、ティコはへどもどと返事をした。さっきからのグレンの目まぐるしい変化に、気持ちがついていかない。
ずっと疑問に思っていたことって? 城下町で続いた誘拐騒ぎのこと?
「すまなかった、話を続けてくれ」
なんとなく釈然としなかったが、グレンにこう言われてしまえば、ティコも先へと進むしかない。
「ええと……それで、肝心の術者なんだけど」
しかしここで、話を進めるのも難しいことに気づいた。
当たり前のことだが、ここまで来たら、その邪悪な術を行使している魔術師の存在を明らかにしなければならない。
その人物についての心当たりは無論ティコにはあるが、グレンにとっては思いもよらない相手だろう。
術のことであれだけ動揺していたのに、その渦中の人物がヴェロニカだと知ったら、グレンがどんな反応を示すのか想像がつかない。
「あの……実は今、ラデクに調べてもらっていて」
結局、その名前を出すのはやめた。
「ラデク?」
グレンの目が書き物机のほうに向かう。
いつもその上に座っているカエルの姿はない。
「そういえばいないな。どうしたんだ?」
「その魔術師を捜しに行ってもらってる」
「カエルに?」
「ラデクはわたしの友人で、そして使い魔でもあるの」
「カエルが?」
グレンの目が今まででいちばん疑わしげなものになった。
失礼な、とムッとする。ラデクはちょっとのんびりしているが、ティコの可愛い大切な使い魔なのに。
「ラデクは探索に特化した使い魔なの。お願いすれば、ちゃんと聞いてくれる。攫われた女の子だって、しっかり見つけ出してくれたでしょう?」
「じゃあ、あの時もラデクが?」
「そう。黒塔から召喚して探してもらった」
「だから君のフードに入ってたのか!」
今になって合点がいったというように、グレンが声を上げた。なぜか少し悔しそうだ。
「ラデクはどうやってあの子を見つけた? 君はその結果をどういう方法で知るんだ?」
「魔術師と契約した使い魔は主と感覚を共有することができるから、この場合、対象の追跡をするラデクが見ているものが、わたしの頭にも流れ込んでくる。ただ、ものすごく集中しないといけないんだけど」
「うん……最初から最後まで何を言っているのかさっぱり判らないが」
グレンは困惑するように言ってから、首を傾げた。
「つまり、今、ティコの頭の中では、ラデクの見ているものが見えているということか?」
「だから集中しないと無理だと言ったでしょ。ずっと頑張っていたけど、嵐が来て、雷……が……」
そこで、ティコの顔がみるみる青くなった。今度驚いたのはグレンのほうだ。
「どうした?」
「お、思い出した……」
今までそれどころではなくて完全に意識の外に放り出していたが、現在も窓の向こうは嵐の真っ最中である。
そのことを思い出した途端、ゴロゴロと鳴り響く不吉な音と、ピカピカ瞬く白い光が、ティコの耳と目の中に飛び込んできた。
さっきよりはやや遠ざかったとはいえ、ドオン! と神の剣が振り下ろされる音も。
「ひゃっ! ああもうっ、ずっと忘れてたのに! どうして思い出させるのよー!」
ぱっと両耳を塞いで眉を上げ、叫ぶように文句を言う。
完全に理不尽な八つ当たりをされて、グレンは不本意そうな顔をした。
「どう考えても俺のせいじゃない」
「というわけで、この嵐が通り過ぎるまで、わたしは何もできない! 以上!」
「なんだか殿下に似てきたな」
とてつもなく失礼なことを言って、グレンは立ち上がった。
ベッドの上に放り出してあったシーツを取ってきて、ふわりとティコの頭から全身に被せる。
視界が覆われて、何も見えなくなった。
「これなら多少はマシになるんだろ?」
シーツの膜の向こうから、グレンの笑いを含んだ声がする。
頭の上にふわっと大きな手の平が乗るのが感じられた。
布越しに伝わる温かな感触は、不思議と外の音を遮断し、ティコの気持ちを落ち着かせてくれる。不快感や恐怖心は、どこを探しても見つけられそうになかった。
「……グレン」
「うん?」
「グレンは、魔術師というものが嫌じゃないの?」
「難しい質問だな」
グレンの小さな笑いとともに、頭のてっぺんに振動が伝わってくる。
それから少し考えるような間を置いて、静かな声が聞こえた。
「少なくとも、魔術師だからという理由で、ティコに対する見方が変わったわけじゃなかったな。俺にとって、君は今でも、頑固で、手強くて、目を離すと何をするか判らない跳ねっ返りで、時々無性に腹立たしい娘だよ」
「そこまで言いたい放題言って欲しかったわけじゃないんだけど」
グレンがまた笑った。
「ただ──君を見ていると、自分が失くしたもの、捨てたと思い込んでいたものを、取り戻せるような気持ちになるんだ」
ぽつりと呟くようにそう言ってから、耳の近くで囁くような声が落とされた。
「城下町に行った時、マリエというあの女の子にも会った。元気そうだったよ。ティコによろしくと笑っていた」
「──うん」
ティコは微笑んだ。
マリエとその母親の笑顔を頭に浮かべる。二人はこれからもあの賑やかな町で暮らしていくのだろう。
彼女たちの平穏と幸福は壊れずに済んだ。そのことが、素直によかったと思えた。
かつてないほどに、心が凪いでいる。雷や雨風の音ももう聞こえない。
そっと目を閉じたら、闇の中に、ちらちらと景色が浮かんできた。ラデクごめんね、もう大丈夫。
──さあ、魔術師ヴェロニカのもとへ。
意識を集中させ、ラデクと視覚を共有した。
深い水の中に潜るようなこの感じは、おそらく使い魔との繋がりが強固になっているというしるしだ。だからなのか、普段よりもずっと景色が鮮明に見える。
使い魔と一体化しすぎることは危険だと、師匠は言っていたけれど──
まず見えたのは塔の外の風景だった。雨に濡れた芝があり、風でざわめく植え込みがある。それらの景色が次々に移り、変転していく。
国王の愛人というからには宮殿内に部屋があるのかと思ったが、ラデクはそちらに行こうとはしない。ヴェロニカが現在いるのは別の場所ということだ。
しかし、城の敷地内であることは間違いない。嵐だからか、警備の兵は以前に見た時よりも格段に数が少なかった。これなら確かに、ティコが城外に抜け出すことも可能だったかもしれない。
石像のある噴水……激しい風に飛ばされそうな庭園の花……しなる木の枝……そう、ここを曲がると門に行くはず。でもラデクが向かうのはそれとは反対方向だ。
井戸があって、その先に……
「建物が見えた」
ティコは目を閉じたまま呟いた。
「尖塔がある……色ガラスのついた窓……正面扉を通って……長椅子が並んでいる」
「尖塔に色ガラス……」
シーツの向こうから、グレンの呟く声が聞こえた。
「建物の奥、下へと続く階段」
「階段?」
グレンが不審げに繰り返す。
狭い階段を下りると、ずらりと並んだ黒い箱があった。どれも蓋が閉じられている。
それらの間を進んでいけば、さらに扉が見えた。この塔のように、真っ黒に塗られた扉だ。
扉の中には狭い部屋があった。暗くて全体はよく見えない。
あちこちで揺らめく蝋燭の灯火に照らされているのは、素っ気ない灰色の壁にずらりと並ぶ本と、上等そうな床の敷物、大きな鏡などだった。
そして、濃い栗色の髪の女性。
……見つけた。
「みぃつけた」
その声は、ティコのものではない、赤く彩られた唇から発された。
にい、と満足そうに吊り上がっている。
爛々と輝く黒い瞳が愉悦に満ちて、こちらを射貫くように見つめていた。
鮮やかな色の衣装に包まれた手が伸びてきて、身体を──
「あっ……!」
突然、激しい苦痛に襲われて、ティコは叫び声を上げた。
ぎりぎりと身体を締めつける頑丈な指から逃れられず、呼吸ができない。
グレンが驚いてシーツを剥ぎ取り、蒼白になったティコを見て目を瞠った。
「ティコ! どうした、苦しいのか?!」
違う、苦しいのはティコではなく、ラデクのほうだ。
ヴェロニカは偵察に来た使い魔のカエルを見つけて、逃げる間も与えずに捕まえた。
彼女の指にぎっちり巻きつかれ、ぐうっと締め上げられて、ラデクはもう声を上げることもできないでいる。
軟らかな身体が捩れるように形を変え、吸盤のついた手がぴくぴくと震えていた。どんなにもがいても振りほどけない。
ラデクの苦悶が、感覚を共有していた主であるティコをも苦しめている。
「く……」
圧迫する強い力に抗えない。
胸郭が軋み、内臓もひしゃげてしまいそうな痛みに、歯を食いしばる。脂汗が顔中を濡らした。
間近でヴェロニカの楽しそうな笑い声が聞こえる。
「お馬鹿さん。こんな小物を使役しないで、あなた本人がいらっしゃい。マルティンのことが知りたいのでしょう?」
囁くようにそう言うと、彼女は今度はどこか別のところに向かって声を張り上げた。
酸欠で視界が朧げになってきたティコには、その言葉をかけられている相手が誰なのか、もう確認することはできない。
「もうすぐ望みが叶いますわ、ご主人様!」
王の傍らにあってさえ堂々として居丈高な振る舞いを崩すことのなかったヴェロニカが、若い娘のように含羞を滲ませ、声を弾ませている。
そして彼女は笑いながら、手に容赦のない力を込めた。
ぐしゃりと握り潰されて、ぎゃっ、とラデクは悲鳴を上げた。その肉体が四方に弾け飛ぶ。
「ラデクっ……!」
その名を叫ぶのと同時に、ティコの目の前が真っ暗になった。
胸部と腹部の圧迫感が消え、ようやく呼吸ができるようになる。床に転がり、咽るように咳き込んだ。
「ティコ!」
グレンの怒鳴るような声が遠ざかる。
ティコの意識はそのまま暗闇へと沈んでいった。