魔術の代償
ティコはそれから、これまでの一連のことを語った。
母のこと、自分とマルティンの関係、そしてヴィラ城に留まることを決めた理由。
グレンはずっと固い表情をしていたが、途中で言葉を挟むことはしなかった。
「なるほど、行方不明になった師匠のことを探るため……その件に『もう一人の魔術師』が関係していると、君は考えているんだな?」
すべてを聞き終えてから、それだけを問いかける。ティコは黙って頷いた。
何ひとつとして嘘は言っていない。しかしその話の中で、ヴェロニカの名前だけは、どうしても出せなかった。
グレンにとって彼女はどういう存在なのか、ティコにはよく判らないからだ。
他の男性たちのようにただ憧れを抱いているだけなのか、それとももう少し踏み込んだ感情なのか。
それが恋と名のつくものであった場合、グレンはどうするだろう。驚くのか、怒るのか、否定するのか。
……ヴェロニカとティコ、どちらを信用するのか。
ティコは胸のあたりの衣服を掴んで細い息を吐いた。その部分がキリキリして痛い。
「君の母親は魔力持ちだったということだが……魔力持ちと魔術師は別のものなのか?」
だから、その質問にはかえってホッとした。今はとりあえず、余計なことを考えないでおこう。
「うん、そうね……魔力というのは、第三の目のようなもの、かな。第三の目を生まれつき備えていない人に、あとから新しい目をつけることはできない。三つめの目を持って生まれたとしても、開け方が判らないとその目が見えることはない」
「……どんなに努力しても、後天的には得られない?」
「そう。でも、魔力を持って生まれても、自分で気づいていない人もたくさんいる。たまにすごくよく勘が働くとか、そういう人は結構、魔力持ちだということを自覚していない場合が多いかも」
グレンは口を曲げて、頭の中で該当する誰かを捜すような顔をした。
これまで「架空のもの」という箱の中に入れて見向きもしなかった事柄を、すんなり取り出して受け入れるのは簡単ではないだろう。
そうやって彼は、なんとか言われていることを少しずつ噛み砕き、呑み込もうとしているようだった。
「わたしの母も、よく判ってはいなかったと思う。ただ、自分に人とは違う力があることには気づいていて、それを『天から授かった特別な力』と呼んでいた」
だからその力を、人のために使うことに躊躇がなかったのだ。
母はあまり頭の良くない人で、けれど信じられないくらい、純粋で心の清らかな人だった。
持って生まれた『特別な力』で天気を言い当てたり、失くしものを見つけたりして、よく人を助けていた。村人たちから頼られたら、すぐに頷いて、見返りを求めることもなかった。
その親切心が仇となり、呪術師の女性に陥れられるまで。
病気治癒の祈祷や雨乞いなどを請け負い生計を立てていた呪術師にとって、すべてをただの「善意」で行う母は脅威でしかなく、焦りと妬みの対象でもあったのだろう。
「魔力を自分の意志で使用して扱うのが魔術。わたしの母は魔力を持っていたけれど、術を操ることはできなかった。魔術は魔力を持つ者が知識を得て理論を学べば、努力次第で習得可能なんだけど……これは、やってみせるほうが早いかな」
言いながら、ティコはベッドから立ち上がった。書き物机から紙とペンとインク壺、そしてランプを持ってきて床の上に置き、自分も腰を下ろす。グレンを手招きして、同じように床の上に座らせた。
紙にペンで円と五芒星を描く。
「これが術の元となる、魔法円。ここに記号と古代文字を入れていく」
「その記号や文字にも、ひとつずつ意味があるのか?」
「もちろん。わたしも理解するまで三年かかったから、詳しい説明はしないけど」
グレンは大人しく口を閉じた。
「術の種類によって中身は変わるの。一般的に、術が高度になればなるほど魔法円の構成も複雑になるし、消費される魔力量も増えていく」
「魔力は魔術を使うたび、減っていくということか」
「物事はなんでも等価交換が基本ということよ。何かを得るためには、何かを差し出さなければならない。錬金術は物質を別の物質に変質させることを目的とするけれど、魔術は術者の内部にある魔力を他のものに変質させる」
そこまで説明したところで、ティコは魔法円を完成させた。
「これはかなり基本的な術式。この魔法円に、術者であるわたしの魔力を注ぎ込むと、魔術が発動する」
紙に描いた魔法円の中心に、人差し指を置く。そこからゆっくりと魔力を注いだ。
魔力は目に見えないからグレンは不思議そうな顔で見ているが、やがて魔法円が淡く発光し、そこからふわりとした白い煙のようなものが生じると、大きく目を瞠った。
ティコは慎重に魔力を注ぎ続けた。指先に集中し、体内の力の巡りをコントロールする。基本の魔術は魔力消費が少ないから、かえって抑えるのが難しい。
白く細い煙が、魔法円の外周に沿ってゆらゆらと立ち昇った。火が出ているわけではないから、臭いはない。
薄い帯のような白煙の輪が空中で漂い、徐々に狭まって一本の柱となった。
くねくねと不思議な動きをしたかと思うと、ぐにゃりと形を変え、四本の枝のようなものを出していく。
そのうちの二本が手となり、残りの二本が足となっていくのを、グレンが息を止めて見入っている。
が、ティコにちらっと視線をやって、訝しげな顔つきになった。
「おい、ティコ」
は、と短く息継ぎをして、ティコは煙の人形を操った。
白煙を出すのは基本の魔術でも、そこから形を変え、さらに長く動かし続けるのは、決して楽なことではない。一定の魔力量を放出するのはただ面倒なだけだが、それと同時に減っていくものが徐々に負担となっていく。
白いもやもやとした人形は、手を動かし、足を動かし、ぐるぐると廻った。
それだけ見れば楽しげだが、魔法円に置いたティコの指先は小刻みに震え始めている。
「ティコ……ティコ、もういい! 手を離せ!」
額に汗が滲み出てきたところで、グレンに怒鳴られた。
ゆっくり指を魔法円から離すと、白煙の人形がさあっと霧散して消えていく。
「──判る?」
大きく息をつきながらティコがそう言うと、グレンは頷くような首を傾げるような、あやふやな仕種をした。
「魔術を発動させるには、魔力と同時に、本人の生命エネルギーを消費するの」
生命エネルギーは、「生命霊気」または「神の息吹」などとも呼ばれる。
この宇宙全体に存在する生命原理であり、人間だけでなく、すべての生物に宿るとされているものだ。
永遠の謎であり、すべての真理の源。
世界の摂理を乱すことにもなりかねない魔術というものは、きっと禁忌に触れるのだろう。だからこそ、神の領分にあるそれを代償として捧げる必要があるのかもしれない。
「単純なものなら少し疲れるくらい。でも、術が複雑になればなるほど、魔力とともにごっそりと、この生命エネルギーを削られる。文字どおり、自分の命を削るということよ。魔力と生命エネルギーは減少しても時間を置いて休息を取れば回復するけど、一度に大量に削られたら両方尽きる。魔力が尽きれば当然、術はそこで途切れ──」
「生命エネルギーが尽きると……?」
「倒れるか、最悪の場合死ぬ」
あっさり言うと、グレンは息を呑んだ。
「魔術は決して万能じゃないの。なんでもできるというわけじゃない。……人を呪い殺すなんて簡単に言うけど、炎を出したり刃物を飛ばしたりという間接的なものならともかく、特定の人間をあっという間に死に至らしめるなんて高度な魔術を使おうとすれば、普通は仕掛けた術者の魔力が足りなくなるか、身体のほうが保たなくなる」
ましてや、平気で笑って立っていられるなんて、あり得ないはずなのだ。
普通なら。
グレンは黙り込み、考える顔になった。
「──じゃあ、あのエリクという男の死は、魔術とは何の関係もないんだな?」
その表情と声には、安堵と落胆の混ざり込んだ複雑なものが滲んでいた。
魔術で直接人は殺せない、ということに安心しているのが半分、そして死の原因究明が遠ざかったことに落胆しているのが半分、というように見える。
しかしその問いに、ティコは答えなかった。
今も脳裏には、エリクの死に顔がはっきりと焼き付いている。決して善人ではなかったが、それでもあのような最期を迎えなければならないほどの罪は犯していなかった。
おそらく、彼の死はティコにも責任がある。
しばらくの間を置いてから、呟くように言葉を落とした。
「……あれから、ずっと考えていたの」
立ち上がり、今度は書き物机から大量の紙の束を持ってくると、再び腰を下ろした。
バサッと音を立てて床に置かれたそれを見て、グレンが「これは……?」と目を眇めた。
その紙には一枚一枚、少しずつ異なる魔法円が描かれている。
「わたしは、ひとつの仮説を立てた。でもそんなこと、本当に可能なのかどうか、まったく確信が持てなかった。だから昼も夜もずっと検証を繰り返して……だけど未だに答えは出ていない」
「それでこのところ、調子が悪そうだったのか。いや待て、検証って、それにも生命エネルギーとやらを消費するんだろう? 無茶なことをして……大丈夫なのか? ちょっと触るぞ」
断ってから、伸びてきたグレンの手が、ティコの額や頬に触れる。
医者が患者を診るような手つきだったのでティコは避けもしなかったし拒みもしなかったが、ふわりと撫でるような感触に、羞恥心と戦うほうが大変だった。
ここが暗くてよかった。
「……で、えーと」
なんだっけ、何を言おうとしていたんだっけ。ようやく大きな手が離れていったが、頭がまだ上手く廻らない。
「あ、そう、仮説ね。つまり通常は、魔術によって人を殺すことは難しい、という話。不可能ではないけど、自分に跳ね返ってくるものを考えると、リスクのほうが大きい。毒や凶器を使ったほうがよほど楽だと思う。──でも」
「でも?」
こちらを覗き込むグレンを、ティコは真面目な顔で見返した。
「もしも術発動時に、他人の生命エネルギーを使うことが可能だったら?」
グレンが言葉に詰まった。