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嵐の夜



 夜空を割るような激しい雷鳴が轟いている。

 小さなランプが明かりとしてあるだけの黒塔内の暗い部屋が、一瞬、窓の外の白い稲光によって皓々と照らされた。

 それから一拍の間を置いて、ドオン! という激しい衝撃音が響き渡る。


「ひっ!」


 その大音量に、ティコは文字どおりその場で飛び上がった。

 今までなんとか我慢して椅子に座り精神を集中させようと努力していたが、もうそれどころではない。

 やだやだもうやだ、と上擦った声で呟きながら、立ち上がって室内をぐるぐると歩き廻る。その行動に何の意味もないことは承知しているが、じっとしていられないのだからしょうがない。


 ティコは昔から、嵐が嫌いだ。


 いや、大風や大雨くらいなら大丈夫だが、そこに雷が加わるともうダメなのだ。

 この音と光はティコをひどく落ち着かなくさせる。要するに、大の苦手なのである。


 なぜならこの国では、雷は「神の(つるぎ)」と呼ばれ、嘘偽りをもって神を怒らせると、その剣が天空から投げ落とされて大地をも溶かす、という言い伝えがあるからだ。


 うんと幼い頃、母親からその話を聞かされて以来、ティコは雷を怖がるようになった。雷が鳴るたび、自分がついた小さなウソを思い出して、剣を落とされたらどうしようとぶるぶると震えていたものだ。

 そして成長した今も、その恐怖心は克服できていない。

 むしろ大きくなった分、我ながら性質(たち)の悪いウソをつくようになったという自覚があるので、なおさら怖い。


「雷は単なる自然現象だって師匠が……まだ解明されてはいないけど、いずれもっと学問が進めば論理的に説明がつくものなんだから……そうよ、そうよね……魔術師はいついかなる時も冷静に理性的に……ひ、ひあああっ!」


 師の教えをぶつぶつ諳んじてみたが、再びの大音量ですべてが吹っ飛んで、悲鳴を上げた。


「ヤ……ヤナ、大丈夫? 怖かったら、抱っこしてあげようか?」


 心配というよりは自分のほうが縋るような気持ちで目をやると、大粒の雨雫がガラスを叩いているというのに、黒猫はいつもと同じように出窓のところで悠然と丸くなっていた。

 無論、ティコのことなど完全に知らんぷりである。

 普段何があってもどっしり構え、ティコの気持ちを落ち着かせてくれるラデクは、今は不在だ。

 ラデクが「仕事」を頑張ってくれているのに、その主たる自分が無様なところを見せるわけにはいかない。そう自分を叱咤して、ティコはなんとかずるずると床を這って書き物机に近づいた。その姿がすでに無様であるなんてことは、考えたら負けだ。

 机の脚に手をかけ、よろよろと立ち上がろうとした時、無情にもまた眩い稲光が闇夜を鋭く切り裂いた。

 ドオオオオン!


「きゃあああっ!!」


 さっきまで四つん這いで移動していたのは何だったのかというくらいの速度で、ティコはベッドへすっ飛んでいった。

 勢いよく剥ぎ取ったシーツを頭から被ってすっぽりと全身を覆い、手と足を縮めたダンゴムシのような姿勢で丸くなる。

 がたがた震えていると、雨音に混じってノックの音が聞こえた。

 まさかこんな時に訪問客がいるとは思わず、空耳だろうと返事をしなかったのだが、


「まだ起きてるか? 開けるぞ」


 という聞き慣れた声とともに鍵が開き、扉の向こうからグレンの顔が覗いた。

 すでに習慣になっているのか、いつも必ずティコが座っているソファに目をやり、そこが空いていることに気づいてベッドへと視線を移す。


「……何してるんだ? ティコ」


 きょとんとした表情のグレンは、シーツの中に潜って目だけを出すという奇怪な姿になっているティコを見つけて、首を傾げた。


「べ……別に?」


 赤くなった頬をシーツで隠しながら、ティコはもごもごと口ごもった。


「そ……そろそろ寝ようかなと思って……」

「シーツの中で?」

「……知りませんか、田舎ではこうして眠るのが普通なんです」

「さっき悲鳴が聞こえたけど」

「気のせいです」

「雷の音よりもすごい声だった」


 そこでこらえきれなくなったように、グレンはぷっと噴き出した。

 ベッドへと近づいてきて、ティコの傍らに腰掛け、丸くなったシーツの上からぽんと軽く手で叩く。


「怖かったな。もう大丈夫だから」


 その声を聞いたら、ティコの胸の奥がじんわりと温かくなった。まるで、明るい火が灯ったかのように。


「……どうしたんですか、こんな時間に」


 素早く目元を拭い、ようやくシーツから頭を出して訊ねると、グレンは「うん……」と曖昧な返事をして、窓のほうへ顔を向けた。

 しんとした静寂の中で、雨の音と、風が窓ガラスをカタカタと揺らす音が響いている。

 雷鳴はまだごろごろと轟いているが、不思議とさっきほど怖くはなかった。

 思えば、嵐の夜に誰かと一緒にいた記憶がティコにはほとんどない。母もマルティンも、同じ家で暮らしたのは、本当に短い間だけだったから。


 雷が鳴ろうが、大風が吹こうが、ティコは一人で耳を塞ぎ、目を閉じて、震えながら、嵐が通り過ぎていくのを待つしかなかった。

 何をしても、どうやっても、怖れは取り除くことも薄れることもなかったのに。


 一人と二人とでは、こんなにも違う。


「──ティコ」


 しばらく黙り込んでいたグレンが、ぽつりと呟くように名を呼んだ。

 その顔はまだ窓のほうへ向けられたままで、こちらに戻ってこない。

 いつもとは違う彼の態度に、今度はじわじわと緊張が喉元までせり上がってくる。

 それをなんとか呑み下して、ティコは「……はい」と小さく返事をした。


「今日、『文化と芸術の間』に行って、書棚を調べてきた」


 どくん、と鼓動が大きな音を立てた。


「隅から隅まで。誰もこんなところは見ない、というようなところも。……そうしたら、おかしな模様が書かれているのを見つけた。棚板の裏だ。驚いたよ、()()()()()()そんなものを発見するとは、思ってもいなかった」


 グレンの声は淡々として乱れがなかった。笑ってもいなければ、怒ってもいない。

 ティコはシーツの端を手の中に握り込んだ。


「円の中に、不思議な記号と見慣れない文字が、毒々しい赤で書かれていた」


 それはティコが描いた失せ物探しの魔法円ではなく、他者の魔術を弾くため、すでに棚板の裏に仕込まれていたものだ。

 だが、魔術を知らない人から見れば、その二つに大した差異はないだろう。どちらも不可解で気味の悪い図形、そうとしか映らない。

「普通の人」にとって、それは等しく「異端」なのだから。

 グレンがようやくこちらに向き直る。

 ティコの口が動きかけたのを遮るように、軽く手を上げた。


「今は黙って聞いてくれ。俺は自分の目で見た事実だけを話す」


 真面目な視線がこちらに向かってきて、ティコは口を噤んだ。


「……城下町にも行って、改めて住人たちから話を聞いた。しかしあの日、『麻袋を担いだ男』の姿を見た、という証言は誰からも得られなかった。あんなに人通りの多い町中で、ティコ一人だけがそれを目撃したということになる。で、俺は思い出した。君はあの時俺に向かってはっきりと、『女の子を見つけた』と言った。実際に麻袋を担いだ男を見たのだとしても、どうしてその中に入っているのが女の子だって判ったんだろう」


 息をひとつ吐く。


「舞踏会では、火の気のないところでいきなり男の持っていた帳面と羊皮紙が燃えた。殿下に聞いたよ、やつの『魔術』はインチキそのもので、実際はただの詐欺師の類であったとね。俺が離れていた間、君がそいつと話していたところを見た人間が複数人いる。その時、君が何かを帳面に書いていたとも聞いた。……そして男はその後、血を吐いて死んだ」


 窓の外を閃光が走る。一瞬弾けた白光が、グレンの顔の鋭い線を浮かび上がらせた。


「──宮廷では今、黒髪の娘が男を呪い殺したという噂でもちきりだ」


 ティコは小さく両肩を揺らした。


「わたしが彼を殺したと……グレンさんも、そう思ってるんですか」


 そして自分の口から出た声も、情けないくらい揺れていた。

 いわれなき罪を着せられて、村人たちに集団で追い詰められた母の姿が脳裏に蘇る。

 母がどれだけ否定しても、彼らはまったく聞く耳を持ってくれなかった。

 自分とは違う力を持っているから。ただそれだけで人は容易く疑惑を膨らませて勝手な確信を得る。

 以前のティコなら、結局こうなるのかという苦い思いとともに、早々にすべてを放り出し、諦めてしまっていただろう。


 ……でも、今はただ、怖かった。


 グレンはしばらくの間、口を開かなかった。その形相が一変し、自分を面罵してくるのを覚悟して、ティコは身を縮めた。

 この魔女め。おまえの力は災厄を招く。さっさと正体を現すがいい化け物が──

 しかし時間が経っても一向に、それらの言葉が投げつけられる気配がない。

 ティコに向けられる彼の眼差しは静かなままで、忌避の色は浮かんでいなかった。

 重い沈黙が支配した後で、彼はふっと息をついて肩から力を抜いた。


「──いや、思わない」


 短く言って、口元に苦笑を刻んだ。自分で自分に呆れるように。


「君はそういうことはしない。何か理由があったとしても、たとえそれを可能にする手段を持っていたとしても、そんな道は選ばない。君は時々突拍子のない行動をするし、白々しい嘘もつくが、そこに狡猾さや悪意を感じたことは一度もなかった。知恵が廻るようで抜けていて、猫を被っていてもすぐ脱げる。隠しているつもりかもしれないが、感情もよく表に出る。そして実は、相当なお人よし。それが、今まで自分の目で君という人間を見てきた俺が出した結論だ」

「…………」


 シーツを掴むティコの手が震えた。唇を強く結び、下を向く。

 鼻の奥がつんとして痛かった。

 様々な感情が一気に喉元まで込み上げる。今まで必死に保ち続けてきた防波堤が決壊して、何もかもが溢れ出てしまいそうだった。


「だけど、君がただの田舎娘だとも、もう思わない。現在、宮廷での君の立場は非常に悪い。このままでは上のほうからの関与が避けられなくなるだろう。今度はおそらく、尋問程度では終わらないし、放置されることも決してない。宮廷人たちがそれぞれの目的で君に手を伸ばしてくる、それこそ手段を問わずにだ」


 グレンはそう続けて、ティコの顔を覗き込んだ。



「ティコ、今夜ヴィラ城を出ろ。この嵐で城の警備も手薄になっている。今しか機会はない。……俺は君を逃がすために、ここに来た」



 真剣な口調で、はっきりとそう言った。

 それはもちろん、ランベルトの命令によるものではないのだろう。

 彼のその言葉は、明確に主人の意に背くものだ。実際にティコを城から出したら、叱責どころでは済まないに違いない。

 しかもグレンは、きちんと調べた上でティコが無関係ではないと確信したからこそ、ここから逃がそうとしている。

 激しい風雨の中、闇に紛れ、一人で黒塔までやって来て。

 彼のその行動が打算からくる演技だとは、ティコには思えなかった。いや、思いたくなかった。そこまで疑うことは、どうしてもできなかった。

 もう無理だ、意地を張るのも限界だ。

 自分の心まで騙すのは、もうやめよう。


 裏切られるのが怖いからと信じる気持ちに蓋をするのは、たぶんいちばん愚かなことだ。


 マルティンも、きっとそう言う。

 人と交わり、人を知りなさい。


「──グレン」


 ティコは顔を上げ、シーツをするりと滑らせて落とした。

 ゆっくりベッドから降りて、グレンの正面に立つ。

 いつもは見上げないといけない彼の顔が、ベッドに腰掛けているため、すぐ間近にある。

 自然とティコの口元に微笑が浮かんだ。


「わたしを信じてくれて、ありがとう。逃がしてくれるというその気持ちは嬉しい。でも、わたしはまだここから出て行くわけにはいかない」


 グレンの眉が寄った。


「どうして」

「しなきゃならないことがあるから。わたしはそのために、この場所にいる」


 腿の上に置かれたグレンの手が拳になって握られる。表情が引き締まった。


「……君は、やっぱり」


 無言の間を置いて出されたそれはもう、問いではなく、確認だ。

 ティコは頷き、まっすぐグレンと目を合わせた。


「そう。わたしはマルティン・セルシウスの弟子、魔術師ティコ・メイヤー」


 神の剣の前で、偽りなく告げた。






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