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 ティコ・メイヤーは今年で十八歳になる、うら若き娘である。


 この国では一般的に、「ティコ」は男名として使われる。

 だから最初この黒塔の上の一室に足を踏み入れた時、グレンというその男は少し戸惑ったような顔をしていた。スパニアの第三王子であるという彼の主人からは、そのあたりの説明はまったくされていなかったと見える。

 ランベルトと名乗ったやたらと綺麗な顔をした王子のほうは、部下のそんな困惑にはお構いなしで、これからしばらくの間ティコの身柄は自分が預かることになったので、何か不自由があれば遠慮なくグレンに言うように、と優雅な物腰で伝えると、王子にしては人懐っこい笑顔で手を上げて、さっさと部屋から出て行ってしまった。

 どうも彼は、接する相手には必要最小限の情報しか与えない、という主義の持ち主であるようだ。


 しかし、いきなり狭い室内に、初対面の者同士二人きりで放置されたほうとしては、たまったものではない。


 ティコは唖然としてその場に立ち尽くしてしまったし、グレンという男のほうも、「まいったな」と頭を掻いている。多少バツが悪そうではあるものの、王子のそういうやり方自体には慣れているのか驚きはないようだった。

 彼はそれから小さく息を吐き出して、ティコに座ることを勧め、自分もその向かいに腰掛けた。

 塔の一室とはいえ、ここには一通りの家具が揃っている。ベッドと、部屋の隅に書き物机と椅子、そして中央には小さな丸テーブルを挟んで一人掛けのソファが一脚ずつだ。

 ティコがソファに大人しく腰を下ろすのを見届けてから、男は改めて口を開いた。


「ということで、グレン・ルーラントだ。よろしく」


 とりあえず、無難に自己紹介から始めることにしたらしい。


「……ティコ・メイヤーです……」


 ティコも小さな声で名を口にした。

 身を縮めながら俯きがちに口を動かすと、後頭部の上のほうで結んだ長い黒髪がさらりと揺れる。いっそこれを解いておいたほうが顔が隠れてよかったかな、と心の中で考えた。


 このひと月の間で、身分というものを笠に着た人間の振る舞いは嫌というほど身に染みている。


 暴力こそ振るわれなかったが、誰もかれも常に横柄で横暴、かつ威圧的だった。おそらく彼らは自分たちよりも下の者、しかも平民の田舎娘など、同じ「人間」とも認識していないのだろう。

 ティコの視線は、向かいに座るグレンではなく、自分のすぐ前にある丸テーブルに据えられている。

 こちらの警戒心と緊張が伝わったのか、グレンは少し困ったように笑った。


「まあ、君が今までどんな扱いをされてきたかは想像がつく。すぐに信用しろというのも無理な話だよな。でもランベルト殿下が俺に命じたのは君の保護だ。決して乱暴な振る舞いはしないと約束する。少しずつ打ち解けていけたらいいなと思ってるよ」


 気さくな調子でそう言うグレンは、仕種でもそれを示すように、ゆったりとソファに座った姿勢で開いた両手を広げて見せた。

 彼は、この城に連れてこられてからティコが目にしてきたような兵の制服や、いかにも気取った宮廷服のようなものは着ていなかった。

 身につけているのは素っ気ないくらいさっぱりとしたシャツとズボンと長ブーツだし、明るい飴色の髪も無造作に括られて右肩に垂れているだけだ。

 腰に剣を帯びている以外は、町を歩いている普通の人々とそう変わりない。

 涼しげな目元に、整った顔立ち。第三王子の側近であるなら彼も相当に身分が高いのだろうが、その態度にはこちらを蔑んだり見下したりするようなところはなかった。

 口調も決して強圧的ではなく、穏やかで柔らかい話し方をする。

 ティコは意を決し、きゅっと口を結んで、ようやく顔を上げた。


「──それではお聞きしたいのですが、グレンさん」

「どうぞ」

「ランベルト殿下は、なぜわたしを『保護』してくださるのでしょう?」

「不安かい?」


 グレンの声に責める響きはない。ティコはそっと息を吐き出した。


「そうですね……なにしろ、わけが判らないことだらけで、わたしも混乱しているんです。突然家の中に兵たちが押し入ってきたと思ったら、あっという間に拘束され、こんな場所まで連れてこられて。その上、尋問の内容は身に覚えのないことばかり……もう、何を信じていいのか」


 頬に手を当て、目を伏せる。

 食事は毎回扉下部の開き戸から差し入れられるし、暖炉には水を張った大鍋が掛けられていて、身を清めることもできる。

 牢の中よりはマシなのかもしれないが、外から鍵をかけられ自由が奪われる生活というのは、まったく快適なものではなかった。


「無理もないさ。大変だったな」


 グレンは労わるように言ってから、ほんの少し上体を前に傾けた。


「率直に言って、今の君の立場は非常に危うい。宮廷というのは一見華やかだが、内実は欲と保身でドロドロしていてね、陰謀や足の引っ張り合いで罪のない者が陥れられることもよくある。ランベルト殿下は、そのことを日々嘆いておられるんだ。君のことを耳に入れて、この上、一般の民までが上のほうの勝手な都合で犠牲になるようなことがあってはならないと、強い決意を抱かれたんだろう」


 それが慈悲か温情か、あるいは気まぐれかは判らないにしろ、ただの村娘の存在などこの大きな城の中では紙屑同然だ。

 生かすも殺すも上の人間の気持ちひとつ、指一本の動きで決まる。

 だとしたら今のティコにできるのは、ランベルト王子が差し出す手を取ることしかない。


「俺もなるべく君の力になれるよう努力する。何かあれば、すぐに言ってくれ」


 柔和に笑いかけられて、ティコも少し苦労したが、控えめな微笑みを返した。


「……ありがとうございます、グレンさん」



          ***



 グレンはそれから毎日、黒塔にやって来るようになった。

 この部屋に入るたび、ティコに何か不都合はないかと訊ね、食事の内容に気を配り、身の周りであった話を面白おかしく披露して、菓子なども差し入れてくれる。

 あまりにも殺風景だからと絵画や美しい布まで持ち込んでくるので、ティコの暮らしは以前よりもずいぶん向上した。

 ここ最近は、「変わりはないか」と扉を開けるグレンを、ティコがソファに座ったまま迎えるのが、すっかり日課になりつつある。


「他に足りないものは?」

「足りないどころか、余っているくらいです」


 最低限とはいえ、置いてある家具は決して粗末なものではなかった。ここに来る前ティコが暮らしていた質素な家に比べれば、こちらのほうがよほど上等なくらいだ。

 この上周囲を美々しい装飾品で埋められたら、それこそ落ち着かない。


「殿下が今度たくさんのドレスを贈ろうと言っていたから、新しい衣装棚が必要かなと思っていたんだが」

「お気持ちだけで」


 ティコは急いで辞退した。お金と暇を持て余している人間の発想は、庶民の常識を軽々と超えてくるから怖い。


「でも君、いつも似たような服を着ているだろう」


 グレンがまじまじとこちらを見てくるので、ティコは少し赤くなった。

 確かに、自分が持っている数少ない衣服は、足首までの長さの地味な灰色のワンピースばかりだ。


「これが気に入っているんです。それにわたしのような真っ黒な髪の女には、似合う色なんてそうはないし」

「そんなことはないさ。艶やかな長い黒髪に似合う色はいくらでもあるし、君の瞳はアメジストそっくりの澄んだ紫だ。高貴で希少な色だから、合わせ方によっては──」


 目を眇めてあれこれと似合う色を考え始めたグレンの視線から逃げるために、ティコは顔を明後日の方向に向けた。

 彼はいつも飄々とした態度を崩さないのだが、時々さらっと歯の浮くようなことを言う。これが貴族の嗜みというものなのだろうか。


「とにかく、もうお気遣いなく。これ以上物が増えたら、眠る場所もなくなってしまいます。ねえ、ヤナ?」


 この部屋に唯一ある窓に視線をやって同意を求めると、そこの窓台で丸くなり日向ぼっこをしていた黒猫が、にゃあ、と眠そうに返事をした。

 小さな頭の動きに合わせて、首に巻いたリボンについている鈴が、ちりんとかすかな音を鳴らす。


「綺麗な毛並みの美人さんだな。寝転がっていても気品がある」


 猫に対してまですらすら世辞が出てくるとは、一体どうなっているのだ。


「家から連れてきたんだろう? ずっと飼っていたの?」

「いいえ、一緒に暮らし始めたのは半年前くらいから。わたしの友達なんです」

「友達……そのカエルも?」


 グレンの目線が、今度は窓際から部屋の隅にある書き物机のほうへと移る。

 そこで置き物のようにじっと座っている手の平サイズの緑のカエルに対しては、その口から誉め言葉は出なかった。


「ラデクのほうが付き合いは古いですね。こんな水気のないところに住むのは大変でしょうけど、文句も言わずに我慢してくれています」

「……そりゃ、文句は言わないだろうね」


 ラデクは体表をぬめりと湿らせ、石のごとくピクリとも動かず、目を閉じたままである。

 黙して語らずといった高潔な雰囲気すら漂っているが、実際はたぶん何も考えていない。目を開けていても彼は大体こんな感じだ。


「君が住んでいたのはどんなところだったんだい?」


 グレンの問いに、ティコはひとつ息を吸うくらいの間を置いた。


「どんなところ……と言われても、そうですね、ここからはずっと遠く離れた森の中の小さな家、としか説明のしようがないんですけど」

「そこに、一人で?」

「はい。子どもの頃、両親を亡くしてしまって。それから祖父に引き取られたんですが、その祖父も五年ほどでこの世を去りました。その後はずっと一人です」

「しかしそれでも子どもであることには変わりないんじゃ? よく生計を立てられたね」

「祖父が少しお金を蓄えてくれていたし、別の意味でも財産を残してくれましたから」


 ティコはそう言って、書き物机の横を目で示した。

 そこには、どっさりとうず高く積まれた本の山がある。


「ああ、あれは俺も気になっていたんだ。あの本はすべて君の?」

「正確には、祖父のものです。強引にここまで連れてこられてしまったけど、ヤナとラデク、そしてあれらの本を一緒に持ってこられたのだけはよかったと思っています」


 別にそれは親切心からではなく、ティコの身の回りのものをすべて調べる必要があった、という事情によるものなのだろうが。

 ──しかしそれだけは本当に、不幸中の幸いだった。


「少し見せてもらってもいいかな」

「ええ、どうぞ。どちらにしろ、もうすでに隅から隅まで検閲済みですけど」


 ティコは少し投げやりに肩を竦めて言った。

 そこにある本はすべてティコのかけがえのない宝物だ。

 それらが兵たちの武骨な手によって荒々しく扱われ、バサバサと振り回され、粗雑に投げ捨てられていくのを黙って見ているのは、苦痛以外の何物でもなかった。

 グレンは一冊ずつそっと手に取ると、丁寧にページをめくりながら目を通していった。

 近年になって流通が進んだとはいえ、本はまだかなりの贅沢品である。ティコが持っているのは原本ではなく、それらを書き写したものばかりだが、それでも紙やインクのことを考えると、庶民にはもったいないくらいの高級品に当たる。

 かけられた手間や、そこから得られるものの貴重さを思えばなおさらだ。

 本に触れる手つきを見るに、グレンはそういうことをきちんと理解しているようだった。


「天文学に……薬草学。驚いたな、錬金術に関するものまである」


 彼のその声音には、素直な感嘆が混じっている。


「君のお祖父さんというのは学者か何かだったのか?」

「いいえ。でも、相当な変わり者だったことだけは確かですね。自分のことには無頓着なのに、知識を得ることには貪欲で、わたしにもいろいろと教えてくれました。おかげで簡単な薬を作ることくらいはできるようになったので、時々村に出てはそれを少しのお金や食べ物に代えて、なんとか暮らしていたんです」

「なるほど」


 返事をしながら、グレンの目は本の中身に据えられたまま動かない。

 真剣な横顔は、扱い方こそ異なるが兵たちのものとよく似ている。ティコはつい唇を皮肉っぽく上げてしまった。


「お探しのものは見つかりましたか?」


 そこでようやく我に返ったように、グレンは本から顔を上げた。

 ティコを振り返り、ちらりと苦笑する。


「気に障ったならすまなかった。やっぱり少し興味があってね。なにしろ伝説の魔術師マルティンといえば、この国の有名人だから。その弟子だと疑われるくらいなら、よほど怪しげな研究書でもあるのかと思ったんだが」

「それで、どうでしたか」

「いや──何もないな。どれも至極まともな内容だし、率直に言えば、これよりもっと専門的な本がこの城にはいくらでもある」


 でしょうね、とティコは心の中で思ったが、口には出さないでおいた。

 その代わり、大きな息を吐き出す。


「わたしは何度も言ったんですよ。魔術師マルティンなんてお話の中でしか知らない、誰かの弟子になったこともない、わたしはただの田舎娘で、魔術なんてものとは一切関わったこともなく静かに過ごしてきました、って」


 魔術師マルティンの唯一の弟子。

 一体、どういう理由でそんな疑いを抱かれることになったのか。

 それを誰よりも知りたいのは、ティコのほうだ。


「君のお祖父さんがマルティンの知人あるいは友人だった、ということは?」

「まさか、そんなことがあるわけないですよ。大体、もしも魔術師マルティンが本当にいたとしても、生きていれば今はもうとっくに百歳を超えているんでしょう? そんなことがあり得ると思いますか? 魔術なんて便利なものがあれば、誰も苦労しません」

「ということは、君は魔術というものに否定的なのか」

「当たり前です。人が『魔術』と呼ぶものは、大体ただの偶然の産物か、化学現象のひとつであって、無知からくる錯覚や思い込みに過ぎません。突き詰めて考えれば、きちんと論理立てて説明できるはずですよ」

「君は女性にしては現実的で理性的だな。本をよく読んでいるだけのことはある」


 グレンの言葉は嫌味ではなく、本気で感心して出されたものらしかった。


「でもまあ、その意見には大いに同感だ。俺は自分のこの目で見たもの以外は信じないようにしているからね、魔術なんてあやふやなものを信奉する気にはなれない。やっぱりそういうのは、ただの空想の産物なんじゃないかな」


 あっさり言って、肩を竦める。


「だが、すべての人間がそう考えるとは限らない。この国でも辺鄙な場所では、まだ『魔女狩り』なんていう野蛮で残忍な風習が残っているところがあるようだが──」


 ティコの指先が、ピクリと反応した。


「……ここのような都市部では逆に、そういう神秘的なものに惹かれたり、縋ったりしようとする人間のほうが多い、ということなんだろうな。そういう連中にしてみたら、君の存在はやっと掴んだ藁のようなものなのさ」


 不可解な事象の理由付けをするために、他人を陥れるか、持ち上げるか。

 方向性は違っても、やっていることは同じだ。


「それで人を攫ってきた挙句、塔の中に監禁しているということですか」

「迷惑な話だな」

「迷惑なんてものじゃありません。この黒塔って、以前までは身分の高い罪人や、ちょっと精神的におかしくなった王族を幽閉するために使われていた建物なんですよね? 壁は全面真っ黒に塗られて不気味だし、今にもお化けが出てきそうだし、こんなところにずっと閉じ込められていたらこっちの精神もどうかなってしまいそうです」

「そこはあまり現実的でも理性的でもないんだ」


 少し笑ってから、グレンはティコの傍らに寄り、膝を曲げて下から覗き込んだ。


「……ランベルト殿下も君には同情しているし、心配もしているよ。国王に逆らうことになるからここから出してやることはまだできないが、なんとかしようと努力はしておられる。可能な限り融通をはかるようにするから、もう少し我慢してくれないか」


 慮るような目がこちらに向けられる。

 ティコはあの美形の第三王子を思い出し、喉元まで込み上げてきたものをぐっと飲み込んだ。

 両手を握りしめて、弱々しい笑みを浮かべ、こっくりと頷く。


 今の自分は無力で哀れな権力の犠牲者で、グレンとランベルト王子はこちらに手を差し伸べてくれる優しい救い手だ。





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