濁流
舞踏会での一件は、「病死」として片付けられた。
昔から、宮廷内での人死には珍しいものではない。不自然な事故死もあれば、明らかな毒殺もある。
廷臣たちの思惑や陰謀が渦巻くこの場所では、人間の生命さえ遊戯盤の駒のひとつとして数えられることが多いのだ。
今回の場合、死んだのが身分の低い男であったことから、余計に大した騒ぎにはならなかった。
その遺体はさして調べられることもなく埋葬され、宮廷の輝かしい記録を汚すわけにはいかないという理由で、舞踏会に出席した者の名簿からも名が抹消された。
表向きには、その日一人の男が死んだという事実が残っただけ。
国王も「死ぬ前に魔術が見たかった」という言葉を残念そうに出したのみで、それっきり彼についての言及はなかったという。
その件はすぐに人々の記憶の下のほうに埋没し、あっという間に風化していく──はずだった。
***
グレンが宮廷内に奇妙な噂が出回り始めていることに気づいたのは、舞踏会から二、三日経ってからのことだ。
例の男はどうやら誰かに呪い殺されたらしい、という怪しげなその話が、どこから出たものなのかは判然としない。
しかしグレンがそれを耳に入れた時にはすでに、噂はコソコソと人から人へ、少しずつ形を変えながら伝わって、すっかり流布されていた後だった。
時に起こる不審死に超自然的な理由付けがされるのは、別におかしくはない。誰かの出任せが面白おかしく脚色されて、人の口の端にのぼることもよくある。
しかし今回ばかりは、そこに聞き捨てならない尾ひれがくっついているのが問題だった。
──男を呪い殺したのは、どうやら闇のような黒髪の若い娘らしい、と。
恨みでも買ったか、あるいは痴情のもつれか、あるいは魔術師を自称する者を本物が許せなかったのか。
一体何がどうしてそんなことに、とグレンは慌てて噂の出どころを調べようと躍起になったが、それはまったく首尾よくいかなかった。こちらが潰そうとすればするほど、どんどん別の「証言」が出てくるからだ。
死んだ男と黒髪の娘が言葉を交わしているのを見た、と話す者がいる。
舞踏会場の端に影のようにひっそりと立っていた、と怯えながら口にする者がいる。
そこに集う人々を憎々しげに睨みつけていた、と鼻息荒く言う者がいる。
事実と虚構が入り混じり、宮廷人たちの声は日に日に大きくなっていく一方だ。
当然、「黒髪の娘」についての議論も盛んに交わされ、正体を突き止めて裁きにかけようと張り切る人間まで出てくる始末だった。
もしも本当にそんな存在がいたら、次に狙われるのは自分ではないかと危機感を覚えているのかもしれない。あるいは、あくまで退屈しのぎのお遊びのつもりなのかもしれない。
しかしどちらにしろ、異様に興奮した彼らの顔つきは、グレンの焦燥を駆り立てた。
大きな流れが決まった一点へと向かい出したら、それを途中で堰き止めるのは不可能に近い。
ただ、呑み込まれるのみ。
──このままでは、ヴィラ城内で「魔女狩り」が始まる。
***
「不思議だよねえ」
ランベルトもこの一件については承知しているようで、薄っすらと笑みながら首を傾げた。
「あんなにも大勢いた招待客たちの中で、なぜ『黒髪の娘』だけが注目されるようになったのかな。まるで誰かが巧妙に誘導でもしているかのようだ。その娘とおまえが一緒にいるところを見ていたのもいて、僕があそこにいた誰かを呪殺するためにあの場に潜り込ませたのではないか、なんて噂もひそかに流れているらしいよ。半分くらいは間違っていない、というのがまた厄介だよね」
自分の私室内で本を広げ、優雅に寛いでいた王子は、そう言ってくすくす笑った。
呑気なその態度に、グレンが眉を吊り上げる。
「楽しんでいる場合じゃありません。この話、陛下にはまだ伝わっていないんですか」
「そのようだね。これを聞けば、さすがにあのボンクラも黒塔に閉じ込めてある娘のことを思い出すだろうし。ただ、ティコのことを知るのは他にもいるから、そいつらの耳に入った場合、どういう行動を起こすかは予測できないな。そもそも、何の力も見せないティコは、『処分』の方向で処遇が決まりかけていたんだ。不要なら引き取るよと僕がそこに割り入ったわけだけど、人を呪い殺すことができると知られたら、きっとまたティコの扱いは大きく変わることになるだろうね」
グレンはそれを聞いてひやりとした。
もしもそんな風に思われたら、ティコは「不要」どころではない存在としてあちこちから手を伸ばされる。
その際の扱われ方が、どれほど非道で屈辱的なものになるかなんて、考えたくもなかった。
彼女は今、風が吹いたらすぐにでも転落しそうな、細い綱の上に立っている。
「……ティコは誰かに危害を及ぼすような娘じゃありません」
低く声を発するグレンをちらっと見て、ランベルトが唇を上げた。
「だったらそれを証明する必要がある、ということさ。このままでは、ティコのことが明るみになるのも遠い話じゃない。でも僕はどうやらおかしな疑いを抱かれているようだから、あの娘のために動くことはできないよ。下手をすると、こちらまで飛び火しかねないからね」
場合によってはティコを見捨てることになる、とランベルトは言外に通告した。
彼には彼の立場というものがあり、抱いている野望のために犠牲は厭わない性格だというのもよく知っている。
しかし、ただでさえ不安定な立場の「平民の娘」であるティコが、さらに第三王子の庇護下からも外れたら、もはやその存在はこのヴィラ城内において、獣の口の中に放り込まれた赤子も同然だ。
グレンは目を伏せて、強く拳を握った。
「それで、ティコはどうしてる?」
「──最近、体調の悪い日が続いているようです。顔色が悪く、いつも怠そうで、食事もよく残しています」
そして夜あまり眠れないのか、いつも寝不足の顔をしている。
日ごとに憔悴していくようにしか見えないのに、本人は「大丈夫」と繰り返すばかりだ。
城下町に続き、二度も人の死を目の当たりにしてしまったのだから無理はないとグレンは思うのだが、これも別の人間の目から見ると「やっぱり罪の意識があるのではないか」というように映るのかもしれない。
「グレン、僕がおまえに下した命令は何だったか、覚えているかい?」
唐突に訊ねられ、グレンは当惑した。
「もちろんです。常にティコの傍らでその身を守り、他からの介入・干渉を防ぎつつ、困ったことがあれば手を貸し、せめてこの場所で心安らかに過ごせるよう尽力すること……ですよね?」
「そして、事の真偽を見極めよ、だ。ティコの心を開かせろ、とは言ったが、おまえの心をあの娘に寄せろ、とは言っていない。正直、今のおまえは情で目が曇ってしまっている。それでは何が真実で何が偽りかも判らないだろうさ」
「俺は、情なんて……」
持っていない、と言いかけたグレンの口が止まる。
現在の自分が、それを声に乗せて言い切れなくなっていることに狼狽した。
ランベルトが微笑を浮かべたまま「グレン」と名を呼び、さらりと問いかける。
「おまえさ、本当はもう、とっくに判っているんだろう?」
グレンの喉がさらに詰まった。
「──何をですか」
「決まってる、ティコの正体についてだ。あの娘の周りばかりで不可解な現象が発生し、彼女が黒塔を出るたび、必ずと言っていいほど何かが起こる。それをただの偶然の連続と考えるほど、おまえは愚かじゃない」
「……まだ、その確証を得ていません」
返した声は我ながら固かった。ランベルトが鼻先で笑う。
「そりゃあそうだろうね。おまえは途中から、その確証を得ることにまるで積極的じゃなくなった。いやむしろ、そこから故意に目を背けるようになったと言ってもいい。なぜか? 答えは簡単、それを暴いてしまえば、ティコが窮地に陥るかもしれないと危惧しているからさ」
グレンは下を向いて黙り込んだ。
ティコを舞踏会に連れて行くことに反対し、「何もするな」とくどいほどに念を押した。もしもそこでも「何か」が起きたなら、その時こそ自分は、現実を直視しなければならなくなるかもしれないから──
ランベルトがそこで声の調子を変え、問いの内容も変える。
「グレン、男の遺骸は調べたんだろう? どうだった?」
「……少なくとも、病死ではないと思います。かといって、毒物反応も見られない。身体のどこにも傷はありませんでした」
「これぞまさしく『不審死』というやつだね。呪殺されたという証拠はないが、それを否定する根拠もない。あの男に遺族がいたなら、きっとこう思うのではないかな。……なんとしても死の真相を知りたい、と」
「──……」
グレンはその場に立ち尽くした。じわりと額に汗が滲む。
七年前の自分の叫びが耳元で聞こえるようで、眩暈がしそうになった。
──絶対にこれを「なかったこと」にはしない。なんとしても俺は真実に辿り着く!
その時の、頭が破裂しそうな怒り、目の前が黒く塗り潰されていくような絶望、身の焦げるような悲嘆が、ありありと蘇る。
無言のまま石になったように身じろぎもしないでいるグレンを見て、ランベルトは「やれやれ」と肩を竦めた。
「もっと客観的な男だと思っていたけどね……グレン」
「──は」
「おまえは以前、『どうしても真実が知りたい』と強い口調で僕に言ったよね? そのためなら、自分の人生も生命も投げ出して構わない、と。そのおまえが今は、真実から逃げようとしている。何を迷う? 何をためらう? おまえの足を止めているものは何だ? それをはっきりさせなければ、どう動けばいいのかなんて、そりゃ判るはずがない。いいかいグレン、まずは自分自身の心と向き合え。考えるのはそれからだ」
言うだけ言って、ランベルトは読んでいた本に目線を戻してしまった。こうなると、もう何を言っても訊ねても、主人が言葉を返してくることはない。
グレンは唇を引き結び、部屋を退出した。