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顕在



 ティコはようやく元の場所に戻って、再び壁際に立った。

 音楽に乗って踊る男女を眺め、ふうっと小さく息を吐く。

 結局、エリクは「もう一人の魔術師」とは何の関係もなかった。マルティンの件もまたこれで振り出しだ。


 ……師匠は今頃、どこでどうしているのだろう。


 無事でいてくれれば、それでいい。

「自分はひとつの場所に長くいられないから」と言う師との共同生活は五年ほどで終わってしまったが、もしかするとこういう事態もあることを彼は予測していたのかもしれない。

 マルティンが家を出て行ったあの時、ティコも森を出て、強引にでも同行していたら、こんなことにはならなかったのか──

 ぼんやりと考えていたら、ほどなくして、グレンが帰ってきた。ティコの姿を見て、ホッとしたような顔をする。


「何事もなかった?」

「はい、なーんにも」


 ティコはしれっとした顔で返事をした。


「グレンさんは殿下に会えましたか?」

「ああ、ずいぶん捜し廻ったけどね。だけど結局、大した用事でもなかったんだ。あの人は一体何がしたいのか、時々本当によく判らない」


 まったく同感だ。

 思わず深く頷いた時、会場のどこかで叫び声が上がった。

 グレンが驚いたように「なんだ?」とそちらに目をやる。騒ぎが起きたのは、ここから離れた場所らしい。にも拘わらず、男性の痛切な悲鳴はよく聞こえた。


「ああ、なんてことだ! わ、私の魔法円が……! 誰か、誰か早く水を持ってきてくれ! このままではすべて燃えてしまう! まだ陛下にお見せしていないのに!」


 泣き声混じりの懇願は、次いで絶望的な呻きに変わった。


「どういうことだ、帳面がだんだん熱くなってきたと思ったら、いきなり火が……! ああ、くそっ、こちらもすっかり灰になってしまった……!」

「帳面から火?」


 場内に響き渡る大声に、グレンが困惑した表情になった。ざわめきとともに増えていく人だかりのほうを見て、それからティコを見る。

 その両眉が真ん中に寄った。


「……君は無関係なんだよな?」

「わたしは今、ここであなたと話していましたよね?」


 不思議そうに首を傾げたら、グレンはものすごくイヤそうな顔になった。


「ティコ」

「はい?」

「ちょっと頬に触っていいか」

「はっ?! 頬?! なんで……って、いたたた! 何するんですか!」


 まだ許可したわけでもないのに、グレンの人指し指が伸びてきてティコの頬をぐりぐりと突ついた。

 上がっていた眉が下がり、「変な顔」とぷっと噴き出す。


「自分でやっておいて!」

「君のその顔を見たら無性に腹立たしくなった」

「子どもか!」


 ぷんぷんしながら解放された頬を手で擦った。グレンは意外と大人げない。


「意外と……か」


 ふと手を止めて、小さく呟いた。

 考えてみたら、今までティコは何度もこれと同じことを思った。

 グレンの新しい一面を見つけるたび、「意外と」と驚きとともに。

 でもそれは本当は、驚くようなことではないのだろう。ティコが最初の印象から、グレンという人物像を勝手に作り上げていただけで。

 グレンが本当はどんな人なのか、知りもしないし、判っているわけでもないのに、「意外と」なんておかしい。

 グレンのことを、「何を考えているのかさっぱり判らない」と思っていたが、そんなのは当たり前だ。


 だってティコはずっと、彼を知ろうとも、判ろうともしていなかったのだから。


 グレンには確かに冷たいところがある。必要があれば人でも物でも利用する、という言葉も嘘ではないのだろう。

 しかしこれまでの間に見てきた彼の人となりは、決して嫌なものばかりではなかったはずだ。


 怪我をしたらまず治療を優先し、理由は聞かずに配慮を見せ、ティコの言葉を疑うことなく信じて人攫いの男のところへ駆けていった。


 それらは断固とした「事実」として、そこに存在していたのに。

 それさえ見ないふりをして、すべてを否定してしまうのは、母を死に追いやった村人たちと何も変わりはないのではないか。

 自身の無知に気づくことなく、闇雲に怖れ、嫌悪し、距離を取る。


「愚かなのはわたしも同じか……」


 ティコはぽつりと呟いた。

 塔から町の景色が一望できるからといって、それだけで何もかも知ったつもりになるのは恥ずべきことだ。

 自分から近寄ってみなければ、見えないものもある。判断するのは、それからでもいいのではないか。


「あの、グレンさん、この間のことなんですけど──」


 この間のこと、が何を指しているのかすぐに判ったらしく、グレンは急にバツの悪そうな顔になった。


「ああ、俺も君に言っておこうと思っていたんだ。あの時は……」


 が、互いに向き合ったところで、ティコはぴたりと動きを止めた。

 その視線が自分の後方に据えられていることに気づき、グレンが訝しげに眉を寄せて振り返る。

 そして、彼もまた固まった。


「ごきげんよう」


 澄んだ声でそう言って、美しい微笑とともに現れたのは、国王の愛人のヴェロニカだった。



          ***



 先に硬直から解けたのはグレンのほうが先だった。

 さっとティコの姿を隠すように前に立ち、胸に手を当てて礼を取る。

 ヴェロニカは赤く彩られた唇をゆるりと上げ、彼に目を向けた。


「あなたはランベルト殿下の側近の……グレン、といったかしら?」

「名を覚えていただき、光栄です」


 返事をして頭を下げるグレンの声音は、常ならぬほど強張っていた。

 憧れの女性に声をかけられ、名を呼ばれたというのに、そこに感激や喜びは感じられず、ひたすらぴんと糸を張ったような緊張感だけが伝わってくる。


「そちらのお嬢さんはあなたのお連れ? なんて可愛らしい方でしょう。ぜひ紹介していただきたいのだけど」


 ヴェロニカの台詞に、こちらを窺っている貴族たちが目を剥いた。

 なぜよりにもよってそんな地味な娘にと、誰もが驚愕と嫉妬の感情を顔に出している。


「とんでもないことです。こちらの娘は身分が低いため、とてもヴェロニカ様にご挨拶できる栄誉を与えられる者では──」


 グレンの目がほんの一瞬こちらを向いた。その表情は、これまで見たことがないほど切羽詰まっているようだった。

 固い顔が下に向けられ、「ご容赦ください」と許しを請う。

 後ろから覗く彼の首筋に、汗が光っていた。


「ほほ、真面目なこと。そんなことを言うのなら、わたくしだって元の身分はうんと低いものですわ。陛下の寵愛を得てのし上がった性悪女……宮廷のお喋り雀たちがわたくしのことをどう噂しているか、自分でも判っていましてよ」


 遠巻きに眺めている女性たちのうちの何人かが目を逸らした。

 ヴェロニカはそちらを完全に無視して、頭を下げたグレンをじっと見る。


「…………」


 息詰まるような逡巡の間を置いて、これ以上は断りきれないと判断してか、グレンの身体がゆっくりと動き、一歩分横へとずれた。

 庇ってくれていた彼の背中が移動し、対面に立つその女性の姿が露わになると同時に、ティコは深く顔を伏せた。


 手が震えている。ドレスで隠れた足も震えていた。


 蒼白になったこの顔を、相手に見せたくはない。

 ティコが抱いている感情が、緊張などではなくはっきりと恐怖であることを、悟られるわけにはいかなかった。


「顔をお上げになって、可愛いお嬢さん」

「……どうぞ、お許しを」


 掠れた声を喉から絞り出す。

 下を向いたティコの目に見えるのは、ヴェロニカが身につけている色鮮やかなドレスだけだ。

 ──どうして。

 頭の中は疑問符だらけで、収拾がつかないくらいの混乱に満ちている。



 なんだこの、()()()()()は。



 ティコは今まで他人から魔力を感じ取ったことはない。それは自分がマルティンと違い、未熟だからだと思っていた。

 でも、違う。まるで違った。

 魔力を持っていると一口に言っても、その保有量は様々だとマルティンが言っていた。

 今までティコが誰からも魔力を嗅ぎ分けることができなかったのは、それがあまりにも小さいものだったからだ。

 マルティンの近くにいたティコは、無意識に彼を基準として考えてしまっていた。

 自分の母を含め、他の魔力持ちは皆、些少な力しか持っていない。そのことを今、明確に理解した。


 それほどまでに、ヴェロニカの魔力は強大だった。


 暴力的なまでに全身から揺らめくそれを、他の人たちは何も感じることはできないのか。上から押し潰されそうな圧迫感で、ティコは立っているのもやっとという状態だというのに。

 そして間違いない。この魔力は、「文化と芸術の間」でティコの術を弾き飛ばしたのと同じものだ。


「慎み深いお嬢さんだこと。お話ししたかったのに、残念だわ」


 ヴェロニカがそう言って、上体を傾けてティコの耳に自分の唇を寄せる。

 近くに立つグレンが、一瞬呼吸を止めたのが判った。

 ティコはそのまま身動きもできず、ただ震えを抑えつけるのが精一杯だ。


「──ねえ、お嬢さん。魔術師マルティンの唯一の弟子をこの城にお招きするよう、陛下に進言したのはこのわたくしですのよ」


 他の誰にも聞こえないくらいの小さな声で、囁きが落とされる。

 咄嗟にぱっと目を上げると、彼女の細められた目とかち合った。

 濡れたように黒々とした双眸が、まっすぐこちらに据えられている。唇は確かに微笑の形になっているのに、その目はまったく笑っていない。

 壮絶なまでに際立って美しい顔をしているだけに、それがたとえようもなく恐ろしく見えた。

 ティコは拳を握り、奥歯を噛みしめた。

 これは宣戦布告だ。


「それでは、またね。どうぞ楽しんでいらして。もう少しで愉快な見世物が始まってよ」


 意味ありげな言葉を残して、ヴェロニカはドレスの裾を優雅に翻し、ティコとグレンに背中を向けた。

 コツコツと足音が遠ざかり、ようやく全身から力が抜ける。足元がふらついたところを、グレンが手を出して支えてくれた。


「大丈夫か、ティコ」

「──大丈夫」

「何事もなくてよかった。どうして彼女は君に興味を……さっき、何を言われたんだ?」


 どうやらあの時の台詞はグレンにも聞こえなかったらしい。

 ティコはまだ血の気の戻らない顔で首を横に振り、「大したことじゃない」と言おうとした。

 が、その言葉は出し終わる前に、耳をつんざくような悲鳴にかき消された。


「誰か、誰か! ここに人が倒れているわ! 血を吐いて、息をしていない!」


 ティコとグレンが弾かれたようにそちらに顔を向ける。

 ぎょっとして動きを止めた人々の隙間から、会場の隅で倒れている男性が見えた。

 心臓が収縮して胸郭を激しく締め上げた。今度こそティコの身体がぐらりと大きく揺れて、背中に廻ったグレンの手に強い力が込められる。


 口から赤い液体を垂らし、目を開けたまま絶命しているのは、あの自称魔術師のエリクだった。


 ティコが素早く顔を戻すと、目線の先に立つヴェロニカが、こちらを振り返って艶やかな笑みを浮かべていた。





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